II コリント1:3-11には、父なる神は「慰めを豊かにくださる神」として描かれています。何と10回も「慰め」という用語が登場します。むろん、クリスチャン相互の「慰め」を入れてこの数です。この手紙の著者であるパウロ自身が「慰め」を必要としていたのかも知れませんし、ある危機を脱して慰めを与えられたのかも知れません。メッセージの焦点は「慰め」についてです。
1.「パラカレオー」:「慰める」と翻訳されたギリシヤ語は、「パラカレオー」という言葉です。「傍らに呼び出されて共にいること」を意味しています。主イエスはIヨハネ2;1で、「弁護者」(パラクレートス)として描かれています。また、ヨハネ14:15‐18、25-27と15:26、16:7では聖霊なる神がパラクレートスと呼ばれています。
2.父なる神も「弁護者」「慰め主」である。驚かされるのは、父なる神、義と愛において私たちを裁くお方が、「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる(パラクレーセオース)神」(IIコリント1:3)と呼ばれていることです。正義と愛の裁判官である父なる神がまた、「傍らに呼び出された弁護士」だと言うのです。神は、三位一体の神として徹頭徹尾「傍らに呼び出され共にいる助け主」なのです。
3.互いに慰め合う:パウロは言います。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたち(つまり、パウロ一行)を慰めてくださるので、わたしたちの神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」そして、6節では「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」と強調します。このようにコリントの人々が慰められるとそれがブーメランのように帰ってきて、パウロらの慰めになり、それがまたまたコリントの人々の慰めとなると言います。互いに慰め合うブーメラン運動です。
4.苦しみ、悩みの連帯:希望と感謝へ IIコリント1章には、苦難(4節に2回)、そして、悩み苦しみ(6節)、「苦しみ」(6節)、苦しみ(7節)、「苦難」(8節)、「圧迫される」「生きる望みさえ失う」(8節)、「死の宣告」(9節)、「大きな死の危険」(10節)という言葉も目立ちます。「慰め」とは何か苦しいこと、困難とは無関係であるとかそれらが全くなくなることではなく、「苦難」の中にこそ「慰め」がある、また、苦難めを「共に」味わうことが「慰め」の共有の根拠になっています。この苦難の共感共苦と慰めの連帯は、他者と連帯して共感共苦するイエスと、イエスを死者の中から引き上げて下さった神の連帯性に根拠づけられています。
5.「慰め」と「勧告」:この言葉は「慰めること」、「弁護すること」と同時に「勧告する」、「勧める」とも翻訳されてもいます。「慰めること」「弁護すること」と「勧めること」は同じ「パラカレオー」なのです。
6.賛美:「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」この神賛美で終わりましょう。また、この賛美に、「アーメン」と応えましょう。(松見俊)