1: 献金の相手
4節に【聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕】(Ⅰコリント8:4)とありますが、ここでの献金は「聖なる者たち」とは、エルサレム教会のすべての人々を助けるための献金と考えられます。ただ、ローマの信徒への手紙では【マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。】(ローマ15:26)とあるように、エルサレム教会全体ではなく、その中における貧しい人々のための献金とされているのです。
この献金の相手は「エルサレム教会全体の人々」なのか、「エルサレム教会の中の特に貧しい者たち」なのか議論となっています。その中でもどちらかと言えば献金の相手は、エルサレム教会の人々全体のことを指しているのではないかとされています。
2: エルサレム教会の貧しさ
エルサレム教会は、他の教会に比べても特に貧しかったとされています。当時は、イエス・キリストの再臨が、今すぐにでも来るだろうと考えられていたため、財産を持つものは、財産を献げ、共有の財産としていたのです。(使徒言行録2:44-45、4:32-37)イエス・キリストの再臨が遅延していたことが、エルサレム教会の人々が貧しくなっていった一つの理由とされます。また、エルサレムに献金を集めるということは、ユダヤ教の人々がエルサレム神殿に献げていたという一つの習慣がキリスト者にも受け継がれていたとも考えられています。
3: 献金の方法と意味
パウロはエルサレムへの献金のために、すでに、「週の初めの日に、各自の収入に応じて取っておきなさい」と伝えていました。(Ⅰコリント16:1-4)収入を得たときにまず献金を取っておくことは、自分が頂いている収入が誰からの恵みであり、誰のものであるかを確認する行為となります。献金は、私たちが「富に仕えるのではなく、神に仕える者となる」ための大切な行為です。
ただ、Ⅱコリントの時期はパウロに対する不信感が大きくなっており、コリントでは献金をすることが滞っていました。そのため6節では、このことをもう一度思い起こして献金をするようにと勧めているのです。
4: 神の恵みとしての献金
献金は、「与えられた神様の恵み」です。マケドニア州の諸教会(フィリピ、テサロニケ、ベレア等)は、激しい迫害を受けて、厳しい貧しさの中にいました。しかし3、4節にあるように、マケドニアの人々は「自分たちに献金をさせて欲しい」とエルサレム教会の人々を助けるための献金をしたのでした。
なぜマケドニアの人々がこのようにできたのか。もちろん「エルサレム教会を助けたい」という熱い思いもあったかもしれません。ただ、何よりも、マケドニアの人々は神様の恵みの業として、献金をしたのです。
パウロは、それぞれを比べて献金をするように教えたかったのではなく、この献金によって、神様の恵みを受け、豊かにされていく姿を伝えたかったのです。このことは、献金だけではなく、奉仕をすること全般においての神様の恵み、その豊かさを教えるのです。
5: 神様の御心
【また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、】(Ⅰコリント8:5)
5節は新共同訳では「神の御心」という言葉が、主に献げることにではなく、パウロたちに献げることに係っています。それに対して、他の訳(口語訳、新改訳、岩波訳)では、神様の御心に従って、まず神様に・・・となっているのです。
【わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。】(Ⅰコリント8:5)(口語訳)
「神の御心」がどこにあるのかということは大きなことです。神様の御心に従って、まず自分自身を神様に献げるということが一番大切なことです。私たちはまず神様の御心を求めていきたい。献金することは神様の御心を求め、従い、神様に自らを献げる一つの行為です。
6: 豊かな者とされる
最後にパウロは、「あなたがたはすべての点で豊かなのですから、献金においても豊かな者となりなさい」と教えます。
実際にコリントの教会は、あらゆる点で、他の教会よりも豊かでした。特に、知識、知恵、言葉において、また経済的にも、当時の教会の中では豊かでした。パウロはそのようなコリントの人々に、神様の御心に従い、その豊かさを分かち合うことによって、より一層豊かになることを望んでいるのです。私たちも、分かち合う中での豊かさをより一層の豊かさを受け取っていきたいと思います。(笠井元)