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2023.7.16 「神の御心を受け入れる」(全文)  ルカによる福音書7:24-35

1:  何を求めているのか

 今日の箇所では、まずイエス様が、群集に向かって3度、「あなたがたは何を見に荒れ野にいったのか」と問われます。イエス様はこの言葉に対して自ら、「あなたがたは何のために荒れ野に行ったのか。」・・・「それは風にそよぐ葦か、それともしなやかな服を着た人を見に行ったのか」と問われるのです。「風にそよぐ葦」とは、時代の権力者によって翻弄され、簡単に意見を変えてしまうような不確かな者を意味します。つまり、ここでイエス様は「あなたがたはそのような、耳ざわりはいいかもしれないが、時と場所によって、言うことがコロコロと変わる、不確かな言葉を聞くために、荒れ野にまでわざわざ出かけていったのか」と問われているのです。また「しなやかな服を着た人」、というのは、続けて「華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人」「そのような人なら宮殿にいる」とあるように、いわゆる権力者のことであり、権威と富を持つ者ということです。イエス様は「あながたは確かに荒れ野に出かけていった。そしてバプテスマのヨハネに会い、その言葉を求めて出て行ったのではないか。それは一体何のために出て行ったのか。あなた方は一体今、何を求めているのか」と問われているのです。

 この言葉は、今日ここに集まった私たちにも向けられています。皆さんは今日、このように教会に集まり、礼拝を行っています。また、配信している動画によって礼拝に参加されている人もおられるのです。皆さんは今、ここに何を求めてきたのでしょうか。もう一度考えてみましょう。「風にそよぐ葦」のように、なんとなく耳障りのよい言葉、聞く者が気持ちよく思えるための言葉でしょうか。それとも、自分たちとはまるで別世界のような宮殿にいる者の言葉、つまり、私たちとはまったく関係のないところから語る言葉を求めているのでしょうか。残念ながら・・・教会では、そのようなものは語られないのです。

 これは、私が献身をして、神学生としての学びを終えて、間もなく牧師になるというときのことですが、出身教会の牧師先生からこのようなことを言われました。「普通は牧師になる人には、頑張りすぎないで、時には遊んだり休んだりすることの大切さを教えるのだけれど・・・まあ、あなたにはそのようなことは教える必要ないね。しっかり頑張ってきなさい。ただ、そんなあなたでも牧師という仕事で行き詰まることはあるでしょう。そのような時、何を語ってよいかわからなくなったときには、ただ一つ『イエス・キリストによる福音』を語るんですよ。あなたの言葉が上手な言葉でなくても、楽しい話でなくても、分かりにくくても、心が枯渇してしまっていたとしても、あなたが語るのは、あなたの何かではなく、イエス様のことを語り続けるようにね。」と、教えられました。 

 教会で語られる言葉。それは今日の箇所では「預言者」とありますが、神様の御言葉を預かった者、預言者の言葉。つまりイエス・キリストによる救いの恵み。キリストによる福音。これが教会で語られる言葉です。私たちがここに集うとき、教会で頂く言葉は、神様の恵み、救いの言葉、キリストによる神様の愛の言葉を聞くのです。

 

2:  神の国を指し示したヨハネ

バプテスマのヨハネは、荒野で、神の国を指し示し、語ったのです。バプテスマのヨハネは預言者であり、神様から言葉を受けて語る者でした。バプテスマのヨハネが語った言葉は「悔い改め」です。「悔い改め」というのは、方向転換をすることです。ヨハネは、人々に悔い改めを語りました。つまり、これまで生きてきた、その生き方が「正しい」と思っている者に、本当にそうですか・・・と疑問を投げかけたのです。人間が何も教えられずに生きる時、「自分のため」に生きていくのです。それはこの世の中をみても明らかです。

先日、幼稚園の全日本私立幼稚園連合会、九州地区会、設置者・園長研修大会・福岡大会というものに出席してきました。その中で基調講演として、博多人形師の中村信喬さんと、中村弘峰さんが来られました。講演内容は、お二人の子育て方法についてなのですが、そこでこのようなことを言われていました。「人形というのは、衣食住に関係のない、はっきりいれば生きるのに必要のないものです。だからこそ、人形を作るときに、自分のために作っていたら、芸術としては成り立つかもしれませんが、結局は、必要なくなってしまうのです。だからこそ、人形を作る時は必ず、『だれかのために』という思いを持っていなければならない。そして、子育ては、すべて、そのことを教えるためにしていきます。」ということでした。子育ての内容としては「プレゼントやお菓子など、子どもの頃にもらうと嬉しいものを渡したときに、別の人に『それちょうだい』と言わせて、渡せる子にする」とか、「大きくなり、ある程度の芸術家としての実力がついたところで、まったく関係のない無償での働きに出かけさせ、なんでこんなことをするのかと思わせる」など、少し過激な気もしないでもないやり方でした。ただ、「だれかのために人形を作る」という思いを身に着けるためには、これぐらいのことをし続けなければ難しい、それほどに大変なことなんだとも語っておられました。

つまり、人間は、もともとは自分のために生きようとしている。そして「他者のために生きる」ということは、そのように教えられ変えられていく必要があるということです。バプテスマのヨハネは、このこと「悔い改める」こと・・・それは自分を中心に、自分の求めるものを求め、自分に必要なものだけを得てきた生き方から、神を中心に、神の御心を求めて生きる道へと歩むようにと語ったのでした。そして、これが、バプテスマのヨハネに与えられていた働きだったのです。

 イエス様は、このバプテスマのヨハネを指して、【7:28 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。】と言われたのです。バプテスマのヨハネは、ただの預言者として、神様の御言葉を取り次いだのではないのです。ヨハネは、イエス・キリストという、神様の救いの御業を整えるための御言葉を語ったのでした。神様の最初で最後の一つの業、人間を愛し、愛し尽くされて、なされた業。自らの御子イエス・キリストの命をもってなされた十字架の御業。そしてその命を新しく創造された復活の御業。この神様の救いの御業の出来事を指し示した者。それがバプテスマのヨハネです。

 バプテスマのヨハネは、この世においてなされた神様の愛の業、その御業を指し示したのでした。

 そのような意味で、このヨハネよりも偉大な者はいないのです。しかしイエス様はこのように続けました。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」このイエス様の言葉は、バプテスマのヨハネについての人間としての評価をしているのではないのです。ここでイエス様は、この世において、神の国へと道を整える働きのすばらしさと、同時に、神の国に繋がることの意味の大きさ、その恵みの大きさを教えているのです。最も偉大な者。それは神様です。バプテスマのヨハネはあくまでも、この神様の愛を指し示した者なのです。この神様の国、神様の救いの御業に繋がる者。神様の愛を受けて、新しく創造された者なのですのことについては、ヨハネによる福音書のイエス様とファリサイ派のニコデモのやり取りをみるとわかりやすいと思うのです。

今日は、そのすべてを話すことはしませんが・・・イエス様はニコデモにこのように言いました。【イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」】(ヨハネ3:3)【イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。  肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」】(ヨハネ3:5-8

そして、この言葉へと続きます。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。】(ヨハネ3:16-17

キリストに繋がり、神様の愛を受け取る時、私たちは、新しく創造された者とされるのです。この新しい命を持つ者は、人間から生まれた者であり、神の国を指し示す、バプテスマのヨハネを超えて、素晴らしい者とされるということです。

それは私たちが素晴らしくなったのではなく、どのような者であったとしても、どれほど自分が弱く小さな者だと思うものであったとしても、神様の愛に繋がる時、神の偉大な愛を受け取る者は、その愛に生きる者として、新しく創造されたということです。神様は、私たちを愛して、御子イエス・キリストをこの世に送り、私たちのために、死なれ、その出来事を通して、私たちに新しい命を与えてくださった。私たちが新しく生きる道、「神様に愛された者」として生きる道を開かれたのです。これが私たちに与えられている恵みなのです。

 

3:   バプテスマのヨハネの言葉を受け入れない人

 バプテスマのヨハネは神の国を指し示しました。ただこの言葉に対して、29節からの箇所において、そのバプテスマのヨハネの言葉を、受け入れない者がいたことを教えます。民衆と、徴税人は、このバプテスマのヨハネの言葉を受け入れ、神様の正しさを認め、同時に、自分の罪を認め、悔い改め、バプテスマを受けたのです。それに対して、ここでは、ファリサイ派の人々、律法の専門家たちは、バプテスマのヨハネの言葉を受け入れず、バプテスマも受けなかったとするのです。 ただ、マタイによる福音書では、ファリサイ派の人々、律法の専門家でも、バプテスマのヨハネのところにバプテスマを受けようとしてきたともありますので、すべてがすべて、ファリサイ派の人々、そして律法の専門家が悔い改めなかったということではないのでしょう。ここでのファリサイ派の人々、律法の専門家とは、「自分の正しさ」を強く持っていた者を意味するのです。先ほどの話で言えば、「自分のために生きる」ということを強く持っていた者。それは、今の私たちに、今の時代の者にも当てはまるかもしれません。ファリサイ派の人々、律法の専門家は、神様の正しさを認めるのではなく、自分の正しさを固持し、自分の間違いを認めず、悔い改めなかったのです。 

このバプテスマのヨハネの言葉を受け入れなかったことを、ここでは【神の御心を拒んだ】(30)と語ります。別の訳では「神のみこころを無にした」とありますが・・・ファリサイ派の人々、律法の専門家たちは、神の国を指し示す言葉を受け入れず、神の御心を拒み、神の御心を無にしたのです。イエス様は、31節からこのように言います。【「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』」】(ルカ31-32

  これは、少しわかりにくいたとえとなっていますが・・・「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」という言葉は、結婚式ごっこをしていることに応えてくれなかったという意味を持つとされ、逆に「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」とは、葬儀ごっこをしたのに、それにも応えてくれなかったという意味をもつとされるのです。ファリサイ派の人々、律法の専門家とは、子どもたちがこのようにごっこ遊びをしようと言っても、応えてくれない人々である。普通に応答して一緒に遊んでくれればよいのに、たったそれだけのことをもしてくれない人たち。ファリサイ派の人々、律法の専門家とは、目の前に起こっていることに、何と応えるべきか、わかっていながらも、応えてくれない者として表しているのです。

 ここに、神様の御心を受け取らない者の姿を見るのです。私たちが、神様が私たちを愛してくださっているということを受け入れない理由があるでしょうか。神様に愛されている。生かされている。それほどに嬉しいことはないはずです。それなのに、私たちはその言葉に耳をふさいでいる。神様の御心を受け入れないようにしてしまっていることがあるのです。私たちは、神様に愛されていると聞き、その愛を受け、その愛に生きる決心をすることができるでしょうか。神様の愛を受けること。それは神様の御心を受け入れることであり、それは神様の御心に生きることへとつながります。私たちは、そのように生きる決心ができるでしょうか。当時のファリサイ派の人々、律法の専門家は、それができなかったのです。

  

4:  神様の御心を受け入れる

 ファリサイ派の人々、律法の専門家の人々は、バプテスマのヨハネの言葉を受け入れませんでした。そして、神様の御心を拒んだのです。神様は、このバプテスマのヨハネの言葉を通して、神の国への道を示し、整えました。 そして、今日の箇所の前にイエス様がバプテスマのヨハネに伝えるようにとしたこと・・【目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。】(7:22)とあるように、イエス・キリストによって、新しい命の創造が起こされたのです。

 神様はこのイエス・キリストによって、私たちに尽きることのない愛を注いでくださっているのです。神様は、バプテスマのヨハネを立てられ、そして御子イエス・キリストによって、救いの御業を成し遂げられたのです。神様はイエス・キリストを通して、神の国を新しく創造されたのです。これが神様の御心です。私たちは、この神様の御心に耳を向け、そして受け取っていきたいと思うのです。私たちは、この神様の国、神様の愛の支配の出来事を受け取り、イエス・キリストを自らの主とする者として歩んでいきましょう。

 私たちは、ただ、イエス・キリストに繋がる者とされていきたいと思います。それは、私たちが、神様の恵みに置かれている者として、お互いを受け入れ合い、愛し合う者とされていくということです。私たちは、他者を愛するために、様々な修行や、育て方によって育てられるわけではありません。そのような自分の心を律することで他者のために生きる力を身につけていくのではないのです。私たちは、ただ、神様に愛されている。イエス・キリストが、私たちを愛してくださり、またとなりの人も愛してくださっている。この一点によって、神を愛し、自分を愛し、人を愛していくのです。イエス・キリストは、私たちが、主にあって共に歩むこと、共に受け入れあい、支えあうことを望んでおられます。そしてそのために、私たちに恵みを与えてくださったのです。私たちは、このイエス・キリストに応えて、イエス・キリストの恵みをしっかりと受け取り、イエス・キリストの恵みに応える者として共に歩んでいきたいと思います。(笠井元)