1: 罪深い女性
ファリサイ派の人はイエス様から「シモン」と呼ばれます。しかし、この箇所に登場する女性は「罪深い女」とだけしか記されていないのです。この女性は罪のゆえに町の人々からは名前すら呼んでもらえない存在とされていたのです。女性自身も自分は「罪深い女」だとしか思えなかったのでしょう。誰にも受け入れられない。自分も自分を受け入れられない。そのような状態にあったのです。
2: キリストとの出会い
この女性はイエス様がこの町に来られるということを耳にしたのでしょう。しかし、イエス様は、シモンというファリサイ派の人の家に入って行かれたのです。当時の常識としては「罪深い女」とされる者がこの中に入ることは許されないことでした。しかし女性はイエス様に出会うために歩き出したのです。イエス様は、この女性を拒否することなく、女性のすべてを受け入れてくださいました。イエス・キリストは、私たちのすべてを愛して受け入れてくださるのです。
3 ファリサイ派シモン
この女性の行為を見て一緒に感激するのではなく、イエス様とはどういう人なのかを試して見ていた人がいました。ファリサイ派のシモンです。ファリサイ派とは、「分離する人」たちでした。不信仰な人たちと自分は違うのだと思っていたのです。シモンは「自分は律法を守る正しい人間だ」と思っていたのでしょう。
4: すべての者が受け入れられている
ファリサイ派のシモンは自分は罪人ではないと考えていました。ここでいえば、借金がない人となります。金貸しを愛する必要もない。そして借金をしている人を蔑み、差別し、受け入れないのです。私たちは、自分には、神様の救いが必要だと思っているでしょうか。
ここでは誰もが借金をしていることを教えます。少ないか、大きいかはありますが、借金をしていない人はいないのです。そしてこの金貸しは、そのどちらの借金も帳消しにしてくださったのです。神様はすべての者を愛してくださっているのです。
5: あなたの罪は赦された 安心して行きなさい
イエス様は女性に言いました。「あなたの罪は赦された」(48)この言葉を私たちは、自分自身に向けられた言葉として受けとりましょう。そしてイエス様は最後に「安心して行きなさい」と言われました。この女性にとって安心できる場所は「どこか」ではなく、イエス・キリストに繋がっていることです。そして、この女性が生きる道は人を愛する道です。教会は愛を受けた者として、誰もが安心して来られる場所としていきましょう。(笠井元)