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2023.7.26 「キリストによって豊かにされた」 Ⅱコリントの信徒への手紙8:8-15

1:  あなたがたの愛の純粋さを確かめるため

 パウロは8章1節から貧しいながらも、エルサレム教会のために献金をするマケドニア州の教会のことを語りました。パウロが、マケドニアの人々のことを教えたのは、それに照らし合わせて、「あなたがたも同じように献金しなければならない」と命令をするためではなく「あなたがたの愛の純粋さを確かめるため」と言うのです。パウロは命令ではないとしますが、やはりコリントの人々とマケドニアの人々と比べた言葉に聞こえてきます。

 

2:  今、やり遂げなさい

 パウロは、Ⅰコリント16:1-4にあるように、すでにエルサレム教会のために募金・献金をすることをお願いしていまいた。ただ、その後パウロとコリントの教会の関係に問題が発生したため、コリントからエルサレム教会へ献金をする働きも滞ってしまったのです。(Ⅱコリント8:10-11)コリントの人々は、去年から、献金を実行したいと願っていたとします。パウロは「今それをやり遂げなさい」と言います。

私たちも様々な準備をして計画をしますが、様々な困難の中から、できなくなってしまったこと、途中で終わってしまっていることがあるのではないでしょうか。「今、それをやり遂げなさい」と教えます。私たちは、神様に仕える方法、計画を今一度思い起こしてみましょう。

コロナ前には行っていたこと、計画していたことで、何かやろうとしていたことがなかったか点検してみる必要があるかもしれません。このときに、以前の計画と、現在行っていることと、何を選び取っていくのかを考える必要があるでしょう。

 

3:        献金に反対する者たちに対する言葉

3:1 

パウロが語る言葉は、コリントにすでに献金に反対する人々がいて、その言葉を聞いて答えた言葉となっています。一つには、「自分たちは収入も少なく、献金をそれほどすることはできない。自分で生きるので精一杯だ。パウロが言う献金などできるわけもない」という言葉があったようです。それに対して、パウロは12節において【進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。】(Ⅱコリント8:12)と教えます。

 パウロは、持っているものに応じて、神様が受け取って下さり、その進んで行う気持ちこそ神様が一番に求めているもの、喜んでくださるものだと教えています。

3:2

もう一つには、「エルサレム教会はそれほど貧しくないだろう。それなのに、なんで自分たちが苦しみながら、エルサレムの人々を助けなければならないのだろうか」といった言葉もあったようです。その言葉に対して、パウロは13節から【他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。】(Ⅱコリント8:13-14)と教えました。

今、ゆとりをもっている者が、隣人の欠乏を補うことにより、いずれその逆が起こることを教えます。

 パウロはこのことを出エジプト記の言葉を引用して教えました。【「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。】(Ⅱコリント8:15)(出エジプト記16:16-18)マナは多く集めようとも、少なく集めようとも、余ることもなければ、足りないこともなかったのです。パウロは、コリントの人々に、必要なものは神様が送ってくださることを教えました。

 

4:  主は貧しくなられた 共に分かち合う

【あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。】(Ⅱコリント8:9

主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられたのです。自分が貧しくなってでも、私たちが豊かになるために働かれたのです。これが「共に分かち合う」ということでしょう。ここでは奉仕の姿勢を教えられるのです。共に分かち合い生きるということは、自分も痛みを伴うものなのです。

 

5:        主イエス・キリストの貧しさによって、私たちは豊かな者とされた

5:1

自分自身が疲れてでも共に生きていく。ただこのことを続けていくと、私たちの心はどこかで枯渇してしまいます。共に生きていくことは疲れを伴います。今週の週報のコラムでは松見先生に「疲れること、癒されること」という題のコラムを書いて頂きました。私たちは、疲れる者なのです。だからこそ、イエス・キリストが貧しくなられたことを覚えたいと思います。キリストに祈られて、疲れた心、枯渇した心に、神様の愛を注いでいただいて、何とか生かされているのです。

5:2

 イエス・キリスト、神の御子にとっての貧しさとは何でしょうか。また私たちの頂いている豊かさとは何なのでしょうか。(フィリピ2:6-8

 イエス・キリストが失われたものは、十字架の上で死なれたことによる「命」であり、「神様との関係の断絶」です。イエス様は十字架の上でこのように叫ばれました。【「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。】(マタイ26:46

 

私たちがイエス・キリストが貧しくなられた中で頂いた恵み。それは「神様との関係の回復」です。本来、断絶していた、神様と人間の関係が回復されたのです。これこそ私たちのいただいた豊かさです。私たちは神様の愛の注ぎを受けましょう。(笠井元)