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2023.8.13 「あなたは盗んではならない」(全文)  出エジプト記20:1、15

 モーセの十戒からのメッセージも第八番目の戒めまで進みました。第八戒は「あなたは 盗んではならない」と命じています。「あなたは盗むはずはない!」。この戒めを今朝は、私たちを自由へと解放し、豊かに備えて下さる、他ならぬそのような神様からの戒めとして聞き取りたいと思います。8月は広島と長崎そして悲惨な戦争体験を心に刻む月です。真の平和を祈り求めながら、「あなたは盗んではならない」という戒めに耳を傾けましょう。この戒めはこれまで、私たちの所有物さらに私有財産をお互いに認め合う戒めとして読まれ、他者の所有物を不当に自分のものにしてしまうことを禁じているものと理解されてきました。しかし、まず、この戒めが元々どのような意味を持っているのかを考えてみましょう。

 

1.「ガーナブ」(盗み)の元々の意味

ここで用いられている「ガーナブ」という言葉は、人間を盗むこと、つまり、誘拐することを禁じたものらしいのです。例えば、創世記40:15によれば、イスラエルの12人兄弟の末息子であったヨセフは兄弟たちによって売り飛ばされ、エジプトに下ったのですが、口語訳では「わたしは、実は、ヘブルびとの地からさらわれてきた(グンナブティ)」者ですと翻訳されています。かつて私の子どもの頃、「人さらい」という恐い言葉がありました。一年たらずの米国での生活でしたが牛乳の紙パックに「我が子を発見し、連れ戻してくれた者に賞金を与える」などと書いてあるのを読んで驚いた記憶があります。離婚して、親である権利を奪われた親の片方が子どもを誘拐することがかなりあるそうです。いわゆるkidnapです。また、申命記24:7には、「イスラエルのうちの同胞のひとりをかどわかして(ゴーネイブ)、これを奴隷のようにあしらってはならない」ことが書かれています。そうであれば、この第八戒は、エジプトの抑圧社会から解放されたイスラエル人を誘拐すること、自由人イスラエルを再び「奴隷化」することの禁止を語っているのです。事実、ユダヤ教の注解書であるタルムードも「聖書はここで誘拐について語っている」と述べています。いわゆる拉致問題です。むろん、物との関係と人間との関係、物を盗むことと人間を盗むことは密接に関係しています。物を盗むことは隣人の生命を脅かすし、誘拐する事は、その背後に物を盗むという動機を持っているものです。そこで第八戒は、人を中心にして物にまで広がる盗みが問題にしていると言ってよいと思います。

 

 2.「足ること」を学ぶ

盗みには目に見える窃盗と小さな目に見えない窃盗があるように思います。私が結婚した時に、まあ、若くして、就職せずに学生結婚をしたので結構貧しかったのですが、妻と共に我が家の家訓にしたみ言葉があります。箴言30:8-9です。「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り/主など何者か、というおそれがあります。貧しければ盗みを働き(ガーナブティ)/わたしの神の名を汚しかねません。」幾人かの牧師夫妻もこの言葉を大切にしてきたと聞いたことがあります。「貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」とありますが、人間はご飯を食べて生きている以上、つまり、ご飯あるいはパンが人間の生存にとって無くてならないものである以上、パンを買う最低限度のお金は不可欠です。大きな額ではないけれども、お金がないとどこか、さもしくなったり、チョッピリ寂しくなったりします。かつて東京駅から名古屋に帰る新幹線の中でお腹が空きました。所持金は300円しかなかったので、車内販売の女性に「そのサンドイッチいくらですか?」と聞いた処、「はい420円です」と渡されそうになりました。「いや値段を聞いただけです。買いません」と狼狽えて、寂しい想いをしました。家計を任されていた妻はもっと大変であったと思います。まあ、腹が減って死ぬわけではないのです。そういう卑しい自分を考えると「貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」という言葉が身に沁みます。まあ、それでも牧師としてパウロがフィリピ4:1112で言うように生きることを目指してきました。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべもすべて知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」とパウロと共に言いたいです。私は一点豪華主義で宇治の玉露、今では八女の玉露をちびちび飲んだり、スイスのエンメンタールチーズを岩田屋で買って来て一切れずつ食べたりしています。皆さんも少し贅沢なことをして下さい。寂しい話になったかも知れません。パウロのフィリピのあの箇所よりも、IIコリント8:15の方が良いですね。「多く集めた者も、余ることなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてある通りです。出エジプト16:18の「マナ」の物語ですね。

 

 3.主なる神は私たちを養って下さる

 今日のメッセージは、主なる神がわたしたちを養って下さるという嬉しいことに差し掛かりました。「あなたがたは盗むはずがない」と言われているのですから、その前提に、「神は豊かに与え、私たち、そして、皆さんを養って下さる」ということが戒めの裏側にあるのです。イエス様はマタイ6:31以下で次のように言われます。「だから『何を食べようか。』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもんはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 私たちは十の戒めを、その前文「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」との関係から理解すべきであると再三再四、学んできました。私たちを憐れみ、多くの犠牲を通して私たちを解放して下さった主なる神がおられる、だからそのように愛されている「あなたは盗んではならない」「盗む必要はない」と呼び掛けられている祝福を感謝しましょう。神が皆さんを養って下さいます。

 

 4.キリスト者と教会の社会的課題

この感謝と喜びからもう少し、今日の社会の問題を考えてみましょう。多少注意してテレビを見、SNSの記事を読んでみると、現代社会で盗みはどんな形を取っているのか知ることができるかも知れません。現在では権力が権力を維持するために札をばらまき、バブルの再来、インフレ気味でしょうか。貧しいものが掠めとられ、金を持つ者が益々豊かになっていくという「盗みのシステム」がまかり通っているような気がします。また、若い世代と年老いた世代の間には貧富の差や社会的責任の負い方に格差があるとも言えるでしょう。いったい1270兆円という財政赤字を誰が負担するのでしょうか。この途方もない赤字は若い世代からの年老いた世代の盗みにならないと良いのですが…。あるいは、男女の性差別性役割のギャップが日本は世界146か国中、125位、政治分野での女性の割合は世界最低らしいです。かなり可笑しな女性政治家がいないわけではありませんが、富や権力の偏りは女性からの男性による盗みのようなものかも知れません。あるいは目を周辺諸国に向ければ、日本社会は隣国、特に韓半島、そして、中国、東南アジア諸国から富を奪ってこなかったでしょうか。このように考えていきますと今日ほど、そして私たち日本社会に生きるものほど、「盗んではならない」という戒めを聞かねばならないのではないでしょうか。神への信頼と感謝、神への畏れが欠如しているところに日本人の決定的問題があるように思います。道徳の根幹である宗教的基盤が欠如しつつあるのです。人間は基本的に欲の深い者です。自分の欲求はどんどん拡大、拡張していきます。しかし、神は私たちの傍らに隣人、しかも神から愛され、大切にされている他者を置かれ、「越えてはいけない」と命じられるのです。自分には他者という限界が置かれているということ、自分の願望、欲望を無制限に拡大してはいけないと制限が与えられていることはなんと素晴らしい恵みでしょうか。「あなたは盗んではいけない」。足りることを学び、工夫して生きること、盗まないことは、他者の権利を侵害しないだけではなく、私たち自身を自由にし、救う言葉なのです。

 

5.悔い改めの必要

 むろん私たちは日本の市民たちの宗教心の浅さを指摘するだけでは済みません。キリスト教国と言われる国々は残念ながら19世紀まで奴隷制度と植民地主義を認めてきました。認めてきたというより、それによって繁栄を築いてきたと言って良いと思います。また、現在でも武力の使用を正当化しています。「明治時代」」、米国の教会に失望して帰国した内村鑑三は、西欧文明は恐ろしく強欲(greed)であるが、キリスト教という「毒消し」によって何とか成り立っていると言ったそうです。しかし、最近ではキリスト教信仰が「毒消し」の働きをしなくなっているのかも知れません。それは欧米、特に、米国社会の危機です。彼らが主イエスに忠実になるように祈る必要があります。

 日本の場合は、明治以来キリスト教信仰を除いて、西欧の技術・物質文明を輸入したわけです。いわゆる「和魂洋才」です。当時はまだ日本にも立派な魂があったのかも知れませんが、「毒消し」を排除して、いつでも猛毒を発揮する「もの」文化を輸入したのではないかと顧みるべきでしょう。私たちの繁栄もどこかアジアの人々の犠牲によって成り立っていることは多くの人々の指摘するところです。そのことについては第十戒の「むさぼり」のテーマのもとでさらに考えてみたいと思いますが、私たちの社会の繁栄が南の国々の犠牲の上に成り立ち、しかもそれが隣人たちの生命の危機さえも脅かしている事実、そして、キリスト教会がこの問題に対して有効に語ってこなかったのではないでしょうか。

 

 6.盗まれてはいないか?

 私たちは盗んではいないかと問われていると同時に盗まれてはいないかと自らに問う必要もあるのではないでしょうか。90%が中流意識を持つと言われた社会があれよ、あれよという間に格差社会です。私たちは本当に豊かなのでしょうか。日本は世界で一番海外資産を持っていると言われていましたが、一体だれがそんな財産を持っているのでしょうか。私たちの社会では、大企業という組織そのものが肥大化しているだけではないでしょうか。ひとりひとりが本当にそれに見合った賃金を得ているかどうか、盗まれてはいないかと問うべきではないでしょうか。また単身赴任という形での夫の誘拐事件が起きていないでしょうか。わたしたちは、「盗んではならない」という戒めを聞くとき、自分は盗まないよと安心するのではなく、盗まれていることにも敏感になり、「盗んではならない」という戒めを隣人と共に聞かねばならないのです。なぜなら盗む者も盗まれる者も人間性を破壊されているからであり、彼ら彼女らも救われる必要があるからです。

 主イエス様は、「あなたの宝のある所には心もある」と言われました。私たちの心はどこにあるのでしょうか。私たちは何を恐れているのでしょうか。虫が食い、さびがつき、盗人らが盗み出すような地上の宝に心を向けているのでしょうか。あるいは天に宝を貯え、神の国と神の義と、そして隣人を愛することに心を向けているでしょうか。

 主イエスは、「目はからだのあかりである」と言われます。わたしたちの目は何を見ているでしょうか。主イエス様をじっと見ているでしょうか。イエス様が言われた神の支配、神の義を見ているでしょうか。もしわたしたちの目がイエス様に向かっていれば、私たちの全身は明るく、喜びと感謝に充ち溢れるのです。しかし、もし私たちが礼拝すべき方を礼拝せず、見るべき方を見ていないとすれば、その暗さはどんなでありましょうか。「あなたは盗んではならない」という戒めは、こうして、私たちを、主イエスを見るように、私たちを自由にして下さった方を見るようにとの招きの言葉であり、また、私たちがこの世の不正と戦うようにと勇気づける言葉なのです。(松見俊)