1: 被害者であり、加害者である
今日は、8月6日、広島に原爆が投下された日となります。今日は、まず、以前、私の知り合いの牧師から聞いた、お話をしたいと思います。その方は、被爆二世でした。被爆者は原爆投下で命を取り留めても、多くの人々はガンを発病し、病に倒れていきました。そして、それは被爆者だけではなく、被爆者の子どもも、いつ自分にガンが発病するかわからないという危険性、また恐怖に置かれているのです。その方も、子どもの頃から、いつ自分が発病するのかわからない恐怖の中で生きてきたということです。そのような意味で、原爆投下されてから78年たった今もまだ原爆による被害が終わったわけではないのです。
ただ、その方は、ある時、自分の祖父が、戦時中に広島の軍事工場の責任者であったことを知ったそうです。広島の軍事工場では、朝鮮半島から強制連行をされてきた人々が大勢働かされていたのです。言うなれば、その方の祖父は、この強制連行による加害者であったのです。そのことを知った、この牧師の方はどうしようもない葛藤に襲われ、涙が止まらなかったそうです。被爆した在日の方々に会うごとに、そのような自分を受け入れてくれる在日の方々を前にして、本当に申し訳ないという、どうしようもない思い、やりきれない思いになるということでした。日本には、朝鮮半島、中国で、民間人の虐殺を行い、強制連行、従軍慰安婦を生み出した加害者としての歴史があるのです。 その方は、発病に怯える被害者としての自分と、朝鮮・中国・その他多くのアジア諸国を侵略した加害者の孫としての自分がいることを知ったのでした。被爆者だからこそ、二度と同じように被爆する人がいないように・・という願いと使命感を持っていました。しかし、その自分に加害者という立場もあるということです。実際にこのような思いにある方は、この牧師の方だけではないと思うのです。戦争は多くの被害者を生み出し、多くの人を傷つけます。しかし同時に、多くの加害者をも生み出しているのです。
現在は、ロシアとウクライナの間で戦争が続いています。この戦争はロシアの侵略戦争だとされています。ただ、実際にロシアの方々のうちに、隣にいるウクライナの人々を、自分の手で傷つけたいと思っていた人がどれだけいたのでしょうか。隣の人を傷つけたくない。しかし、そのようにするしかなかった。強制的に人を傷つけさせられた。それが戦争です。ウクライナの人々も抵抗をして戦っています。今では反撃に移りつつあります。様々な形となりますが。ウクライナの人々も被害者でありながら、少なからず加害者とさせられてしまっているのです。人が人を傷つけなければ生きていけない。そのようなことをしたいわけでもないのに、家族を守るため、自分が生きるために、誰かを傷つけ、時に命を奪わなければならないという状況。それが戦争です。
戦争は何を生み出すのでしょうか。それは被害者であり、加害者です。心を痛め、苦しみ、涙を流していく者が生まれるのです。平和を求めるということは、このどちらも生み出さないための願いでしょう。
2: 力で保つ平和?
現在、日本は、このウクライナの戦争を理由の一つに挙げ、軍事力を大幅に増加し5年間で43兆円という予算を組んでいます。簡単に計算して1年間で8兆6千万円となります。これは、日本の国民の平和を保つために必要なものだとされているのです。ちなみに「異次元の少子化対策」とされ、少子高齢化社会の対策を行うための予算は1年間3兆~5兆円程度が必要とさています。そしてそのためには、課税も仕方がないと言うのです。守るべき国民にどんどん重税を課し、国民自体が未来を見ることができないことから、人口が減る中、倍以上の軍事費を増やし一体誰を守るのでしょうか。
戦争をしないための「抑止力」として武器は必要だと言われます。「抑止力」と言えば、なんとなく戦争をしないために必要なことだと思わされます。しかし、武器は人を傷つける道具であり、言うなれば強い武器を持ち、大きな力で人を押さえつけるというだけのことです。極端に言えば、武器を突き付け、「言うことを聞かなかったら、あなたを殺します」と言っているのです。これを本当に、平和を保つための行為と言うことができるのでしょうか。
東福岡教会には附属の幼稚園、東福岡幼稚園があります。もし子どもに対して、保護者、幼稚園の先生が力をもって押さえつけ、「言うことを聞きなさい。聞かなければあなたをたたきます。たたくどころではありません。あなたの命を奪います」と言うこと許されません。「脅迫」、「罰を与える」、「乱暴な言葉使い」、「差別的関わり」、そして「人間としての人格を尊重しないこと」は「不適切保育」であり、決して行ってはならないことです。しかし、この「抑止力」とは、まさにこの不適切保育に当てはまる行為なのです。相手よりも力を得て、自分の言うことを聞かせることです。「たたいてはいけません。あなたがたたくなら、もっと強い力であなたをたたきます」ということです。 それが平和を保つ行為となるのでしょうか。
そして、実際に、このようなことをしている大人を見て、子どもが育っているのです。子どもが思うことは「たたかれたくなかったら、もっと力を得ればいいだ」、「人に傷つけられたくなかったら、もっと強く相手を傷つけられるように力を得るしかないのだ」ということでしょう。今の日本の大人が選んでいる道は、そのような道です。
3: 神の裁き 平和への道
今日の4節では、【主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる】(イザヤ2:4a)と言います。この世では不当に苦しめられている人が沢山います。逆に、誰かを苦しめることによって利益を得ている人もいるのです。武器を作り、武器を売るなかで、人の命よりも自分の利益を求めている人もいれば、その武器を買うことで、人の命を守るためではなく、自分の立場、政治的地位を守ろうとしている人がいるのです。それだけではないでしょう。この世において、それぞれに見えているものは、全体像を見ていると思っていても、人間には一面的にしか見えていない、人間には物事のすべてを正しく見ることはできないのです。 この社会において行われている裁判の、すべてを否定するのではありませんが・・・不完全な人間が、お互いを裁くとき、明らかに不当な裁きを受ける人がでてくるのです。
神様は、そのような人間の裁きを正し、不当に苦しめられている人の人権を回復し、命を守られるのです。人間の都合のよいように、「これは仕方がない」「しょうがないんだ」といった言い訳も通用しません。年齢を重ね、知識が増してくると、「平和を実現することは、そんなに簡単にはできない」とか「世の中そんなに単純ではない」、「それぞれの国の立場や関係など複雑なのだ」と色々と理屈をつけて、自分が平和を作ろうとしない事を正当化します。
そして世の中の価値観では大きな権力、大きな武力がないと物事は変えられない、という考えが蔓延しています。しかしそれは一見近道のようで、実は袋小路になっている道なのではないでしょうか。逆に一見遠くても、一番近い道のりがある。それは、人の痛みの心、その心に寄り添い、その心を繋いでいくことです。以前、平和を考える集会で子どもが一言言いました。「争いをなくすには友だちになればいいんだね」。素直な言葉だと思います。
神様は、義なる方、聖なる方として、また愛と慈しみの方として、人間を正しく裁いてくださるのです。そして、そのために神様は御子イエス・キリストをこの世に送り、このイエス・キリストを十字架につけられたのです。これが義であり、愛の方の裁きです。神様はこのイエス・キリストを十字架につけることで、苦しむ人と共に生きて、痛みを持つ者の痛みをとことん分かち合う者となられたのです。これが神様の与えてくださった平和への道。人間が一番遠い道のりだと考える道。武器を持つのでも、力を持つのでもなく、人の痛みを知り、その心に寄り添い、繋がり、関係を作っていく。神様はこの出来事を通して、共に生きるという道を開かれたのです。
4: 剣を鋤に、槍を鎌に 幻を見る
今日の箇所1節では、【2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。】(イザヤ2:1)とあります。そして、4節でこのように言います。【2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。】(イザヤ2:4)
今年の私たちの教会の標語は「主の希望をもって幻を見よう」です。イザヤは、神様が与えられた幻として、【剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする】姿をみたのです。私たちは今、どのような幻を見ているでしょうか。少子高齢化の中、人口が減少し、社会全体が衰退していく中。勝ち組、負け組と分けられ、少数の勝ち組が、多数の負け組を支配する姿でしょうか。私たちは、自分たちを見つめ、この世を見る時、そのような八方ふさがりの社会の中に、どのような幻を見ることができるのでしょうか。神様は、そのような私たちに、神様を主とした、神様を見つめ、神様が命の業として働いてくださる中で「幻」を見せてくださるのです。それは【剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。】という幻です。
これが神様の与えてくださっている幻です。武器を捨て、農業用具としていくこと。それは、人の命を破壊するものを、人の命を育むものへと変えていくということです。神様はこの幻を、イエス・キリストを土台として見せてくださっているのです。イエス様は、まさに非暴力者として十字架への道を歩まれました。イエス・キリストの十字架は、まさにこの幻の成就の姿なのです。 イエス様はこのように言われました。「あなたの神を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」。そして「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と。 神様は、この「幻」を私たちに与えてくださっているのです。私たちは、平和を求める者として、「平和の幻」を見ていきましょう。
わたしたちは、「主の光の中を」歩んでいきたいと思います。それは、一番遠回りに見える道。力を持つのではなく、隣人を知り、隣人を受け入れていく道。それがどれほど理解し合えない者だとしても、それでも、どこまでも関係を作り続ける道。まさにイエス・キリストを歩まれた道です。私たちは、この神様の示されたイエス・キリストの道を、希望として、幻の業として見ていきましょう。(笠井元)