1: テトスを送り出す
パウロはテトスと二人の人の三人をコリントの教会に送り出します。テトスへの手紙に【信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。】(テトス1:4)とあるように、テトスはパウロにとって、まさに自分の子どものような存在であったのでしょう。パウロは、そのようなテトスをコリントの人々を悲しませるような内容の手紙を送った後に遣わしたのでした。パウロにとってはこのことが気がかりでした。パウロはコリントの人々のことを少し誇った(7:14)のです。「コリントの人々は、自分が伝えた福音を信じた人々だ。とてもしっかりしていて行くことであなたも励まされる」といった内容だったのでしょうか。実際のコリントの教会には権力争いがあり、分裂し、多くの問題を抱えていたのです。パウロはテトスに、そのようなことは伝えなかったのかもしれません。
7章ではテトスはパウロから教えられた以上のコリントの人々の信仰を喜び、慰められたとあります。テトスはコリントで慰められ、喜び、そしてパウロのもとに帰ってきたのです。その出来事によって、パウロ自身が力づけられたと語っているのです。(Ⅱコリント7:6-7、13-16)
2: 熱心さ
16節、17節、22節において「熱心」という言葉が出てきます。この言葉は7:11,12にも出てきます。パウロは、「テトスと、もう一人熱心な者を送る」と言うのです。この熱心さは「自分自身が抱いている熱心さと同じものだ」とも言うのです。パウロはもともとはファリサイ派の一人として熱心に、キリスト者を捕まえ、脅迫し、殺そうとしたのです。(使徒言行録9:1-2)
何かに熱心になれるということは大切なことでしょう。ただ、熱心さは時に人を盲目にします。他者の忠告に耳を貸さない者となってしまうこともあります。何かに熱心に取り組んでいる時に否定されるとその人を敵対視することもあります。律法を熱心に守っていたファリサイ派の人々がイエス様を十字架につけていったというのも、その一つでしょう。
エジプト記20章5節で、神様は【わたしは熱情の神である】(出エジプト20:5)と言われました。「熱情」をもって他者に関わること、それは「愛」そのものです。私たちは、神様の「熱情」「情熱の愛」を受けて立たされていることを覚えたいと思います。神様は自分が傷つくこともいとわないで、情熱をもって人間を愛する決心をされたのです。
テトスは、コリントの人々を愛し、励まされた者として、熱心に福音を分け合い、献金をお願いする者として、コリントに行くのです。
3: 公明正大に(Ⅱコリント8:20-21)
パウロは、テトスとあと二人の人を送るとします。この二人が誰であったかはわかりません。重要なのは「誰か」ではなく「どのような人であったのか」です。
一人目は、18、19節にありますが、各教会で評判がよく、そして重要なこととして、エルサレムへの献金のために、諸教会から任命された者でした。
パウロが各教会から献金を集めていくにあたって一番大切なことは信用性でしょう。パウロ一行の働きが信用されなければ、献金を預けることはないでしょう。パウロは、自分たちの推薦した者ではなく、各教会が任命した人を同伴させることで、献金を渡すための信用性を高める努力をしたのです。
ただ、実際にこのあと12章ではパウロが遣わしたテトスたちが信用を失っていることも記されているのです。(Ⅱコリント12:14-18)
もう一人については22節にあります。こちらは、「わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです」とあるように、パウロたちと一緒に行動してきた者として信用ができる者だとします。パウロは、この募金について、だれからも非難されないように、公明正大にふるまうために、この三人を送ったのです。
現在も変わらずお金の管理は気を付ける必要があるでしょう。疑いを持たれないように、疑いを持たせないようにする必要があるのです。
4: 富みに囚われないために
テトスと同伴者である諸教会の使者。この「使者」という言葉は、「使徒」と同じ言葉であり、ここでは「財務担当」といった限られた務めに従事する者として「使者」という言葉が使われているとされます。
今日の箇所では、神様の福音、十字架や復活、イエス・キリストといった内容のことは出てきません。
イエス様はマタイによる福音書6:24でこのように言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
イエス様はあなた方の主人は「神」か、それとも「富」かと言われています。それほどに富は人間の心を支配するものであると教えているのです。この献金の扱いを間違えると大きな分裂、争いの原因となるのです。献金の扱いに配慮をすることは、十分福音的な行為「愛の証し」「誇りの証し」なのです。
私たちは、献金の扱いに対する重要性を覚え、お互いに仕える者とされていきたいと思います。(笠井元)