1: 献金の勧め
パウロは8章でエルサレム教会に献金をするように語ってきました。【あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。】(Ⅱコリント8:9)献金に対するこの理由はとても理解が出来る言葉となります。
9章でもいくつかの献金のお勧めとしての理由が示されていますが、その中にはとても人間的なものが含まれています。献金をする理由を三つほど見ることができます。①マケドニア州の人々を奮い立たせるため。(2)、②多くを種を蒔くことで、多くの富を受けるため。(6)、③聖なる者(エルサレム教会)に認められるため。(14)ここでのパウロの言葉には、人間的要素が大きくあります。コリントの人々がこの理由を聞き、躓いてもおかしくないとされています。
パウロはローマの信徒への手紙15章で、異邦人キリスト者は、エルサレムの教会から発信された福音によって、「霊的なもの」つまり「キリストによる救い」という福音を受けたのだから、エルサレム教会に対して助ける義務があると言います。そして、マケドニア州の人々も、アカイア州の人々もこのことに喜んで同意したとあり、コリントにおいてパウロが勧める献金は無事成し遂げられたのです。(ローマ15:26-29)
2: 祝福という贈り物
5節でパウロは、「献金」を「贈り物」と言います。この言葉の原語の意味は「祝福」という意味となります。ここでは神様の祝福を献金という物質的なものとしています。神様の祝福として思い起こされるのは、アブラハムへの神様の祝福でしょう。(創世記12:1-3、13:14-17)神様はアブラハムに「あなたを大いなる国民にする」「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」「この土地をあなたに与える」と語ったのです。
神様の祝福を受けると、億万長者になれるということではないでしょう。ただ神様の祝福は気持ちや心の問題だけではなく、実際に私たちを豊かにしてくださる。必要が満たされるのです。豊かな生活とは、「共有」にあります。独り占めしているときに、本当に満たされている者となるでしょうか。物質的に貧しくても頂いている恵みを神様に感謝していただき、隣人と分け合って生きるとき、私たちは豊かにされるのです。
3: 「主よご覧ください」 喜んで与える人
パウロは献金をする者たちが、不承不承ではなく、強制されてでもないようにと教えています。この言葉の裏には不承不承に、強制されて行っている人たちがいたということでもあります。
旧約聖書の申命記26章10節にはこのような言葉があります。【わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。】これは新共同訳聖書の言葉となりますが、口語訳ではこのようになります。【主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました。】
「主よご覧ください」。強制されて差し出すときにこのような言葉は出てこないでしょう。カインは神様に胸を張って「主よご覧ください」と献げ物が出来なかったのではないかと考えることもできます。「主よご覧ください」という言葉からは「神様、あなたが与えてくださった恵みはこれほどに素晴らしいものです。感謝致します。あなたに頂いた恵みをあなたに献げます。」という思いをみることができます。喜んで神様の前に立ち、感謝して献げる。これが献金の姿勢ではないでしょうか。(Ⅱコリント9:7)(Ⅱ9:11-12)
4: 神様の恵みに応答する
8節からの箇所は、多くの見返りを期待させる言葉となっています。ただ、この中で、神様が沢山の恵みを与えてくださるから献げるということではなく、多くの種を蒔く時、神様は、私たちの思いを越えた応答をしてくださるということを聞いていきたいと思います。
神様は、私たちを【すべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできにな】(Ⅱコリント9:8)る方なのです。
私たちが何かをする前に、すでに神様は私たちに大きな恵みとしてイエス・キリストを送って下さったのです。私たちの神様への献げ物は、神様の恵みに対する応答です。神様は、この私たちの応答に応答して下さるのです。
5: 他者の必要に応答するところにある神様の栄光
エルサレム教会への献金には大きな理由が二つありました。一つはエルサレム教会の必要に対する応答です。もう一つは「神の栄光のため」です。(Ⅱコリント9:13)
エルサレム教会の必要に応答する奉仕の業を受けるエルサレム教会の人々は、「神をほめたたえる者」とされるのです。つまり、奉仕の業として、他者の必要に応答することが神の栄光に繋がっていることを教えます。
私たちの行う奉仕の業。他者の必要に応答する、一つ一つの小さな業は、神様の栄光を表わす行為とされるのです。「他者の必要のために献げることは、神を礼拝する一つの方法なのである」(現代聖書注解)と言われています。私たちは神様の栄光を表わす業として、他者の必要に応答することを覚えたいと思います。(笠井元)