モーセの十戒の九番目の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」と命じています。私たちは何を証言し、誰の真実を語るのでしょうか?
1.「証言」:真理・真実な人間関係
イスラエル人にとっては、隣人との具体的な関わりは、いつも真理の問題に関わり、真理の問題はまた、いつも具体的な人と人との関わりの中で考えられました。エフェソ4:15では、「愛にあって真理を語れ」と言われていますが、真理のない愛は偽りであり、愛のない真理のことばは空虚です。パスカルの「パンセ」:「人は真理を偶像にする。なぜといって慈愛をよそにした真理は神ではないからである。慈愛をよそにした真理は神ではなく、神の影像であり、偶像であり、これを決して人は愛してはならない。また崇めてはならない」
2.偽証のかたち 隣人を陥れること
シュヴェーベ:「新聞、ラジオ、テレビによって、われわれの生活の公的な場面が毎日法廷となる。・・・そこではたいがいジーナリストが検事を演じ、彼は告発し、証人をつれてきて、刑を提議する。・・・最後の審判は毎日行われている。昔は「生ける神のみ手にかかることは恐ろしいことである」と言われていた。今日では、人の手にかかることがどんなに恐ろしいことかを多くの人々が日常体験しなければならない」。
3.偽証のかたち 嘘について:自己弁護から自由にされていきること。
4.傍らにいますキリスト・イエス
ローマ8:31~35a:「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなして下さるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」イエス・キリストは私たちの罪の告発者としてではなく、私達の傍らにいて私たちをとりなして下さるのです。
5.歴史的事実に向き合う勇気:小説家大江健三郎の『沖縄ノート』とその裁判について
6.終わりに:神の信実の前での虚言者として
カール・バルトの言葉を引用しながら、私達は真実の神の前で「分をわきまえて」、つまり神の前では自分は虚言者であることをわきまえて、神と他者との関係において真実であるように生きましょう。(松見 俊)