1: キリストを中心に生きている
10章から13章は、いわゆる「涙の手紙」の一部分とされています。この手紙は、パウロの第三次伝道旅行の後か、その間に執筆されたとされ、パウロを批判する者たちに対して、パウロが反論して記したものとされています。
コリントの教会の人々が、パウロを批判していた一つに、離れている時、手紙であれば強気な言葉で語るが、実際のところは「弱腰」な人であるということでした。「弱腰」は口語訳では「おとなしい」、ギリシア語では「追従的な、卑屈な」という意味も持っている言葉とされます。
これは推測ですが、このように言われる一つの理由として、Ⅰコリントの2章3節にあるように、パウロがコリントに滞在したとき、衰弱し、不安な状態であったからではないかとも言われています。また、パウロは「誰に対してもその人のようになる」(Ⅰコリント9:19-23)という思いを持っていたということが、むしろ「弱さ」「八方美人」とみなされたとも言われています。
これに対して、パウロは1節で【このわたしパウロが】(10:1)と言います。これは特に「わたし」ということを強調した言葉であり、「強気」と「弱気」と二つの違うパウロがいるのではなく、「わたしはただ一人のパウロである」と強く主張しているのです。
そして、ただ一人のわたしパウロは【キリストの優しさと心の広さとをもって、あなた方に願います】(10:1)とし、自分はキリストを中心として生きる者だと語っているのです。
パウロは、ガラテヤ書ではこのように言います。【わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。】(ガラテヤ2:19-20)
2: 肉において、霊に従って
パウロが批判されたもう一つの理由として、2節にあるように肉に従って歩んでいると批判されていたのです。人間は人間である限り肉において歩んでいます。イエス様は「肉において」歩む人間となられたのです。(ヨハネ1:14)但し、イエス様は「肉に従って」は生きたのではありませんでした。パウロはローマ書ではこのように言います。【 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。】(ローマ7:5-6)
パウロは、もともと肉に従って生きていました。それは律法に縛られた生き方でした。わたしたちは人間として「肉において」生きるのです。キリストに繋がるとは、肉において生きる中で、霊に従って生きる者とされることです。
3: 社会に生きたキリスト
もう一つの批判された理由として、「パウロの使徒性が疑われていた」ということです。今日の場面では言われていませんが、パウロが多くの異言を語ったり、幻を見て啓示を語ったりといった特別な力を表さないこと、むしろエルサレムの人々に対する献金を募ったりと、とても世俗的な者だということも批判の対象とされたと言われています。人間は、何か特別な生き方をする者のことを、神様の力をまとった者とすることがあります。私たちバプテストは「宗教者の特別性」を拒否した宗派となります。
このことはイエス・キリストご自身がまさにそのように生きられたということができるのです。イエス・キリストは神殿の中に閉じこもって生きられたのではなく、罪人の隣に来て生きられたのです。私たちは社会に生きるのです。
4: 神の知識に逆らう高慢を打ち倒す
パウロは、【わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力で】(10:4)あると言います。コリントでは、【神の知識に逆らうあらゆる高慢】(10:5)とあるように、神様の福音としての言葉ではなく、自分たちの作り出した勝手な言葉を正しいとしていたのです。
そのような者たちにパウロは手紙を送っているのです。このコリントの人々に対して、パウロは、自分の知恵、力ではなく、神に由来する力であなたがたの高慢な思いを打ち倒すと言っているのです。私たちの武器は、「神に由来する力」であることを覚えたい。神様を忘れてしまっているならば、それはどれほどの力にもならないのです。
パウロは、このような「神に由来する力」をもってコリントの人々を打ち倒し、キリストに従わせたいとします。パウロはコリントの人々の思いを打ち砕き、言い負かしたいとい思いではなく、どうにか神様に立ち帰って欲しいという願いを持っていたのです。パウロは、コリントの人々が神様に立ち帰るように涙を流しながら、この手紙を書き綴ったのでした。
私たちは、自分自身も含め、「肉に従い」生きる者となる時、高慢になり、神様から離れてしまう時、自分のために、祈って下さっている兄弟姉妹がいるということ、またそのように自分たちも祈り求めていくことを覚えていきたいと思います。(笠井元)