1: イエスの言葉を聞きに集まった群衆
今日の箇所では、まず、大勢の群衆がイエス様のもとへ集まってきたところから始まります。この群衆は、何をしにきたのでしょか。8:1では【8:1 イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせ】たとありますが、イエス様は神の国、福音を宣べ伝えていました。群集は、このイエス様の言葉を聞きにきたのでしょう。イエス様の語る、神の国、その福音のみ言葉を聞きに来ていたのです。そのような意味では、ここに集まってきた人々は、イエス様のみ言葉を求めて来た人たちだということです。そのような人々に、イエス様は【聞く耳のある者は聞きなさい】(8)と言われました。これはただ、その言葉を聞くということではなく、この後の18節にあるように、【どう聞くべきかに注意しなさい】(18)、つまり、この福音を聞くか、それとも聞かないか、というよりも、その聞き方、聞いてどのように生きるかを語られているということです。この言葉は、今日、このように、教会に集まりました、私たちにも向けられているでしょう。イエス様は、私たちに言われます。【聞く耳のある者は聞きなさい】(8)、【どう聞くべきかに注意しなさい】(18)私たちは、今日、ここでイエス・キリストによってなされた神の救いの御業、福音の出来事を聞き、受け取りたいと思います。
2: 4つの土壌
イエス様は、この神様の御言葉を聞く、聞き方を教えるために、一つの譬え話をされました。ここでは、種の蒔かれた4つの場所について語ります。このたとえ話を聞く時に、まず疑問を持つのは、種が様々なところに蒔かれているということではないでしょうか。普通に考えれば種を蒔く時に、良い土地だけに蒔けば良いのではないか・・・と思うのではないでしょうか。茨の中、石地、そして道端などに種を蒔くなんて・・・どれだけ雑に蒔いているんだと思うかもしれません。 ただ、この種まきの方法は、当時のパレスチナ地方においては、ごくごく自然な方法でした。つまり、このイエス様の話を聞いていた人々にとっては、とても分かりやすいお話だったのです。イエス様の時代、種は手で一面にばら蒔き、そのあとに、種の上に土をかぶせていたのでした。つまり、まだ耕されていない土地に、手当たり次第にとりあえず種を蒔き、そのあとに、土を耕していったということです。そのため、種を蒔く時点では、その土地がどのような土地であるのか、まだわからない状態であったのです。その土壌が、種を育てるのに適しているのかどうかということは、見通しがついていなかった。当時は、そのような方法で種を蒔いていたのです。
ここで、イエス様は、種がまかれた4つの場所について語られます。一つは、道端に落ちた種、もう一つは石地にまかれた種、もう一つはいばらの中に落ちた種、そしてもう一つは良い土地に落ちた種です。そして、それぞれの土壌に落ちた種の成長について、イエス様は11節から解説をされます。イエス様が自分の譬えについて解説をするというのはとても珍しい場面となります。イエス様は、この4つの土壌に種を蒔く、このたとえ話から、神様の御言葉を聞くこと、そしてその言葉を聞いて、どのように生きるかを教えているのです。
神様の御言葉が、4つの人間の心のうちに蒔かれたのです。一つ目は、道端です。この道端の表す人間の心とは、まず、その御言葉を受け取らない者を意味します。この心に蒔かれた種、神様の御言葉は、そのことを喜ばれも、信じられもしません。ただ、道端で人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまうように、芽を出すこともなく、悪魔に奪い取られてしまったのです。「道端」。これが一つ目の蒔かれた人間の心を表します。二つ目は、石地です。この石地の表す人間の心とは、神様の御言葉を聞き、喜んで受け入れるのですが、しっかりとした根をはることがなく、少しの試練にあうと、芽が枯れてしまうように、その信仰はすぐに失われてしまう、そのような心を表すのです。そして三つ目は、いばらの中です。茨の中に落ちた種は、これまでの種とは少し違い、しっかりと、根をはり、芽を出し、育ったのです。決して悪い土壌ではなかったのでしょう。しかし、その周りには、いばらも一緒に伸びてしまったのです。この心には、神様の御言葉を受け入れ、その御言葉を育てていくだけの用意が出来ていたのです。しかし、譬えでは茨となっていますが、私たちの心で言えば、富や快楽も受け入れ、育てていく心となっていたということです。この心の状態が一番やっかいで、一番陥りやすい状態かもしれません。
神様の御言葉を喜び受け入れる。しかし、実は結ばないのです。つまり、神様のみ言葉を喜んで受け入れながらも、その生き方を変えることはない。神様が私たちに送っている恵みは受け取るけれど、自分は変わることはない。その生き方は、この世でこれまで生きてきた生き方とまったく変わらない。芽を出しても、伸びていくことはできない。つまり、神様の恵みをいただきながらも、新しい命の道を歩みだしていくことができないということです。そして四つ目は、良い土地です。良い土地に蒔かれた種は多くの実を結んだのです。つまり、神様の御言葉を聞き、今日の箇所の言葉で言えば「忍耐して」実を結んだ者ということです。
3: 待っていてくださる神様
この今日の箇所のイエス様のたとえ話は、絵本にもなっていますし、幼稚園では讃美歌にもなっています。東福岡幼稚園でも6月は、このたとえ話から作られた讃美歌を歌いました。余談となりますが、このたとえ話から作られた、子どもの賛美歌では1番は道端、2番は石地、3番は茨、それぞれに蒔かれた種は、鳥に食べられてしまった、また枯れてしまったとなります。そして4番で良い土地に蒔かれた種が多くの実を結んだという賛美歌となっています。今年は6月の中旬に特別伝道礼拝が行われたのですが、このとき、子どもたちがまだ3番までしか覚えていなかったのです。3番で終わってしまうと結果、種が茨に落ちて伸びることができず、枯れてしまった・・・で終わってしまうのです。この賛美歌を保護者の方や講師の先生に聞いていただくためには、4番の良い土地に蒔かれたところまで歌わないと、さすがにまずいので、なんとか子どもたちに頑張ってもらい、先生たちも一緒に歌いながら、賛美をしたということがありました。
それほどに有名で、話しやすいこの話ですが、実は、このたとえ話には、とても難しい問題があるのです。それは、種とされる、神の御言葉が、私たちの心の状態によって、育ったり、育たなかったりするのかということです。神の御言葉は、それほど力のないものなのか。むしろ、神様の御言葉が、私たちを変えてくださり、私たちに本当の信仰を与えてくださるのではないかということです。この問題を解決するために、様々な解釈がなされています。そのうえで、今日は、このイエス様の譬え話から、神様の御言葉に、どれほど力があったとしても、私たち人間の心が開かれない限り、その御言葉は実を結ぶことはできないと読んでいきたいと思うのです。神様は、絶対的な存在です。神様にできないことはありません。しかし、その神様が、私たち人間に自由を与えられました。いわゆる自由意思です。神様は全知全能の力をもって、私たちを造られました。その中で、人間に、考える力、様々な思いを持つことができる感情、自由な心を与えてくださったのです。私たちには、神様の愛を喜ぶ心もあれば、神様の愛を拒む心もあるのです。神様は、あえて、人間をそのように創造された。そしてその人間を「良し」とされたのです。これが、私たちの信じる神様なのです。
しかしまた、だからといって、神様は、道端や石地、そしていばらのような状態にある人間を見捨ててしまうというわけでもないのです。むしろ、そのような人間の自由から生まれる、失敗や、苦しさ、痛みを受けいれ、自らも共にそこに立つ方となられたのです。神様は、その自らの御言葉を拒む者を受け入れられた。そしてそのために、イエス・キリストを送ってくださったのです。私たちの心は様々です。時に神様を拒み、時に神様を求めます。神様は、そのような自分勝手な人間と共にいてくださる。そして、そのような私たちの心が、少しずつ耕され、自らの言葉を喜んで受け入れる時を待っていてくださるのです。今日、ここで、私たちが心を開き、神様の御言葉を受け入れられたら、それを神様は喜んでくださるでしょう。しかしまた、そうでなかったとしても、神様は、私たちを愛してやまないのです。神様の愛。それは絶対です。この神様の愛が変わることはありません。様は、私たちがこの神の愛を受け入れることができるように、心が耕されるように願い、求めているのです。
4: 応答した弟子たち
今日の箇所では、イエス様の譬えと、その解説がありますが、その間、9節、10節に弟子たちがイエス様に尋ね、イエス様がその問いに答えるという場面があります。弟子たちは、イエス様の言葉に応答したのです。ただ、その弟子たちの応答の仕方は「わかりました、こういう意味ですね」「イエス様ありがとうございます。私たちはあなたの言葉に従います」といった、言葉での応答ではなかったのです。むしろ「イエス様、これはどういう意味ですか。私たちにはわかりません」「どんな意味なのか教えてください」といった、自分たちの理解不足をさらけ出した応答なのです。そのような弟子たちの応答に、イエス様は【「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」】(ルカ8:10)と答えられたのです。イエス様は「あなたがたには、神の国の秘密を悟ることが許されている・・・」と言われました。
「神の国の秘密」。それはそれほど難しいことではないでしょう。「神の国の完成」「神様の愛の支配の業」を意味しているのです。ただ、その神様の国の完成、神様の愛がすべての者に広がること、その喜びと、恵み、そして、そのために生きることを知るだけではなく・・・私の言葉に応答する、あなたがたはその愛をもって生きる者とされるだろう」と教えられているのです。
私たち人間に神様の御言葉、神様の御心、そのすべてを知ることはできないでしょう。それこそ、イエス・キリストの十字架の意味、復活の恵みの偉大さ、命の新しい創造、そして私たちを愛する神様の愛の恵みの尊さを、私たちが知恵として、完全に理解するということは難しいと思うのです。
ただ、それでも、私たちは、この神様の愛に応答したい。そこに、神様の御言葉を聞く姿勢、神様の御言葉に耳を傾けていく姿があるのです。神様の御言葉を聞くこと。それは、ただ聞くだけではなく、その御言葉に応答していく。それこそが、神様の御言葉を聞くということなのです。
5: 実を結んだ者として
私たちは、この弟子たちの姿にあるように、神様の御言葉を聞き、そして応答する者として生きていきたいと思います。今日の箇所で、良い土地に落ちた種は、芽を出し、育ち、そして100倍の実を結んだのです。実を結ぶ。植物の中でも、実をつけるものは、基本的に、実の中に種を持ちます。つまり多くの実を結ぶとき、そこには多くの種が生まれるということなのです。実を結ぶこと、それは種を受け入れ、種を持ち、そして種を蒔いていくことへとつながるのです。私たちが神様の御言葉を良い土地として、聞いていく時、そして実を結ぶ時、それはその言葉に応答していくときです。種を蒔く時、今日学んだように、その種から、芽が出ないこともあれば、すぐに枯れてしまうこともあり、成長しないこともあります。
それでも、私たちは、神様の御言葉を受けた者として、この種を蒔き続けていきたいのです。これが、私たちに与えられている生き方です。私たちが神様に愛されているという恵みを頂く時、私たちは、その愛を語り続け、種を蒔き続けていきたいと思います。そして、どれほどに、困難な時にも、そのように生きる使命が与えられているということを覚えたいと思います。私たちは、神様の御言葉を受けた者として、実を結んだ者として、種を蒔き続けていきましょう。(笠井元)