1: ともし火をどこに置くのか
今日の箇所では、まず「ともし火をどこに置くか」を教えます。この今日の言葉の前には、たとえ話として、種が4つの場所、「道端」「石地」「茨の中」、そして「良い土地」に落ち、その中でも、良い土地に落ちた種が多くの実を結んだ、という話がされています。ここで言うところの種とは、神のみ言葉であり、良い土地、良い心で神様のみ言葉を聞きましょう、そのために忍耐して、実を結ぶ人となりましょうと教えているのです。そのうえで、今日の箇所となります。ここでの「ともし火」とは、その前にある「種」と同じで、「神様のみ言葉」とされます。私たちに最初に問われているのは、「あなたがたはともし火をどこに置くのか」ということです。今日の箇所の少し前ルカの7章では、ファリサイ派の人がバプテスマのヨハネを受け入れず、神の御心を拒んだとありました。またそのあとの記事では、一人の女性がイエス様を、自分の涙で濡らし、自分の髪でぬぐい、その足に接吻し、香油を塗った場面があるのですが、この時、イエス様を招いていたファリサイ派の人はイエス様を呼んでおきながら、迎え入れるということはせず、むしろ、この女性にどのように対応するのかを試して見ていたとあるのです。そのような者たち、神様の御心を拒み、また神の御子であり、神の言葉とされるイエス様を迎え入れない者たち、そのような者たちの姿を見る時に、今日の箇所で言えば、この神様のみ言葉とされるともし火を、器で覆い隠した者たちと言うことができるのだとおもうのです。また、ここではこのともし火を、寝台の下に置いていないか・・・とも問われているのです。ともし火を、わざわざ器で覆い隠そうとまではしなくても、ともし火を誰にも見えないところに置いていないかということです。そして、ここでは、ともし火、つまり神の言葉は、そのように器で覆い隠すのでもなく、また誰にも見えない寝台の下に置くのでもなく、燭台の上に置くものだと教えているのです。しかもここでは【入って来る人に光が見えるように】(8:16)とあります。つまり、多くの人が、この神様のみ言葉を求めて受け取ることができるように、暗闇の中に歩み、疲れ、迷いさまよう中で、光を見ることができるように、「燭台の上に置くという行為を行いなさい」と言われているのです。
私たちは、まず神様のみ言葉を、自分自身が聞く者とされたいと思います。そして、この神様のみ言葉を受けて、神様のみ言葉を中心に、光で輝かされるように教えられている。これこそが、教会の使命でもあるのです。私たちは、この神様のみ言葉の光を、わざわざ器で覆い隠そうともしなくても、また見えないところに隠そうともしていなくても、燭台の上に置くという行為をしていると言えるでしょうか。もしかしたら、わざわざ見えないようにはしていなくても、見えるところに置くという行為もしていない時もあるのではないでしょうか。そのような私たちに、聖書は、ともし火、神のみ言葉を、世界中の人々がその光、その喜びを見ることができるように生きるように教えているのです。
私たちは自分自身だけでなく、この教会がそのように神様の光を輝かす教会となっているのか考えたいと思うのです。ここに光があり、喜びがあり、入っていきたいと思うような教会となっているかということです。わたしたちは、自分自身が光輝く者となるのではありません。教会の中心には、神様のみ言葉としてイエス・キリストが来てくださっています。私たちがすべきことは、このイエス・キリストが来てくださっているということを、見えるようにするということです。その光が見えるように、そしてその恵みの喜びの声が聞こえるようにする。どれほどの暗闇の中にあっても、ここには光がある。別に、すごい人、お金持ち、何かが出来る人が集まっているのでもないのに・・・なぜかここには喜びがあり、光がある。教会とはそのようなところでありたい、そしてそのようなところに変えられていきたいと思うのです。
2: 福音はすべての者にあらわにされる
続けて17節では、【8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。】(8:17)と言います。この言葉は、一つには、隠れているものを人間の内にある心や行為として、私たちの心の内にある思い、または誰にも見えないところで行う行為も、隠れてしていることも、神様の前にあっては隠し続けることはできないという意味として受け取られることもあります。ただ、このともし火としてのみ言葉と続けて読むときに、この隠されているもの、秘められたものは、神様の恵みのみ言葉であり、このみ言葉、神様の救いの御業は、いずれすべての人に向けて語られ、どれほど隠されようとも、この世の光となるということとして受け取っていくことができるのです。
私たちは主の祈りという、イエス様が教えて下さった祈りの中で「御国を来たらせたまえ」とお祈りします。「御国を来たらせたまえ」。神様の愛の支配。神様がすべての人間を愛し、その愛を注いでくださっている。そしてその愛に触れた、人間がお互いを愛する者とされて、つなげられている。そのような関係でつなげられていくように、すべての人間が、神様を愛し、お互いを愛する者とされるようにと、神様の愛の完成の時を願い求めて、「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。この箇所では、その隠されて、秘められているものとして、この神の御国がくるということ、神様の愛の完成の時が必ず来ることを教えている。そして、そのために、生きるように、教えているのです。いずれ神様の愛の完成の時が来る。神様の御国が来る。神様は、だからこそ、そのために、私たちに、神様のみ言葉というともし火を燭台に置くように教えておられるのです。
聖書は、今、私たちが生きるこの世界に必ず、喜びで満たされる時が来ることを教えます。私たちには神様のみ言葉を土台とした、希望が与えられているのです。これほどうれしいことがあるでしょうか。イザヤ書40章では、このように教えます。【あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。】(イザヤ書40:28-31)
私の実家には、この31節の言葉が貼ってありました。「主に望みをおく人は新たな力を得る」。小さい頃から、何度も何度も読んできたみ言葉です。小さい頃から失敗し、挫折し、「もうだめだ」と何度も思ってきました。疲れて、立ちあがる力も、勇気も何度も失ってきました。そのような中で、いつもこの言葉を見てきたのです。そのような時にいつも思わされるのは「自分には力はない」・・・という思いの中で、「それでも大丈夫だ」「主である神様に望みを置かなきゃ」「神様に委ねてもう一度歩き出そう」と思わされてきました。
私たちがみ言葉を受けて生きること。それは自分ではなく、すべての造り主である神様に委ねることです。今も、そして永遠に愛で包んでくださる方、そして私たち人間を愛でつなげてくださる方がいてくださる。私たちは、この方に委ねて、生かされるのです。いずれ、その愛の完成の時がくるという希望を持ちながら。私たちは生かされているということを覚えたいと思います。
3: 持っていると思っている人
18節では【8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。】(8:18)と教えます。私たちはみ言葉をどのように聞いているでしょうか。聖書は続けて【持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。】(8:18)と言います。ここでは「持っていない人は、持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。つまり、持っていない人は、自分は持っていると思っていると勘違いをしている、神様はそのような間違った思いを取り上げられると言うのです。私たちは、自分にとって必要な物を持っていると思っているでしょうか。また、何を求め、何を必要としているでしょうか。
「あなたは自分に必要なものを持っていますか」、と聞かれたときに、皆さんはどのように答えられるでしょうか。「すべてを持っている」と言う人はほとんどいないと思います。「まったく持っていない」という人もおられるかもしれませんが、一番多いのは、「すべてではないければ、ある程度、少しは持っている」といった答えなのではないかと思うのです。すべてを持っていて、すべてが満たされているという人間というのは、どこかで自分の持っていないものを見落としているのかもしれませんし、逆にまったく何も持たず、ただただ絶望の中にいるという人もまた、自分が持っているものを見落としているのかもしれません。誰もが、少しは自分に必要な物をもっているとし、ただ・・・すべてを持っているわけではないと感じている。あとはその大きさであったり、量の違いがあるだけなのではないでしょうか。
ただ、そのような私たちに聖書は、「あなたがたは本当に必要な物を持っていますか」と問うているのです。持っていると思っているだけで、実のところ、本当に必要なものを持っていないのではないか。その現実に目を向けるように、そして本当に必要な物を持つように教えているのです。私たちが考えている必要なものとは、大抵が、自分が生きるための富、または知恵、力、人間関係などといったこととなっている。どうにか生きている。与えられている時間の中で、できるだけのことをして、得るべきものを得て、生きている。このように生きることはとても大切なことです。
そのうえで、聖書の言葉【持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。】(8:18)を聞いていきたいのです。聖書が教える持つべき物。それはイエス・キリストが命を奪われることによって得た、本当の命です。イエス・キリストは十字架の上で、死なれた。命を失われたのです。イエス様は、すべてを失われた。しかしその出来事を通して、復活された。十字架の死を越えて、新しい命、真の命、本当の光、本当の命を創造され、受け取られたのです。聖書は、このイエス・キリストの十字架の死と復活の命を知り、受け取ることを教えます。
私たちがこの世で本当に必要としているものは、イエス・キリストが十字架の上で失われ、復活で新しく創造された、この命なのです。私たちがこのイエス・キリストの十字架を見て、その十字架に続いて生きるということは、今、自分が持っているもの、持っていると思っているものを手放すことから始まるのです。私たちは、本当に必要なものは、何も持っていないことを認めること。本当に必要なもの、本当の命を得るために必要なものは持っていない。そのことを知る必要があるのです。このために、私たちには「悔い改め」が必要とされます。「悔い改め」。それは生きる方向を変えていくということです。それこそ、これまで求め続け、今も出来る限りの力を持って得ようとしているものを一度手放し、生きる方向転換をするということです。イエス様はその宣教の初めに【1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」】(マルコ1:15)と言われました。「神の国は近づいた。神様の愛の支配が始まった。だからこそ、今求めて、今必要としているものではなく、神様の愛、真の命に目をむけなさい」と教えられているのです。神様はイエス・キリストの十字架と復活とを通して、私たちにこのように教えられます。「あなたは、私の大切な愛する存在です。私はあなたを愛している。わたしがあなたと共にいる」。私たちが聞くべき神のみ言葉。それは、この神様の愛です。私たちは、聖書のことばから、様々なことを聞くことができます。ただ、その中心に、私たちを愛する神様の愛、その恵みがあるということを信じて、神様のみ言葉を聞いていきたいと思います。
4: み言葉によって変えられる
聖書は、この神様のみ言葉を「どのように聞くべきかに注意しなさい」と教えます。私たちは、神様のみ言葉をどのように聞いているでしょうか。神様のみ言葉は、私たちの心の奥まで届き、私たちの心を変えてくださいます。私は、人間の心が変えられることは奇跡であると思っています。どんなに牧師が説教をしても、家族が聞いてほしいと願っても、心の奥底から変えることは難しいのです。それは、自分自身でも変えられない心の内にあるもの、とも思うのです。私たち人間の心が変えられる時。それは、神のみ言葉を、神様の愛の到来として聞く者とされていく時。私たちの心に奇跡が起こされているのです。そしてそのために神のみ言葉があるのです。私たちを変えられるのは、神様ただ一人であり、そのみ言葉のみなのです。わたしたちは、このみ言葉に触れて、このみ言葉を運ぶ者とされていきたい。そのためにまず、私たちが神様のみ言葉を聞いていきましょう。この世がどれほどの暗闇に覆われていると思っていても、ここには、決して消えることのない、ともし火、光、神様の愛があるのです。この世は神様の愛によって希望に満ちた光輝く世界とされるのです。どれほど、人間の間違った社会でしかなくても、神様は、必ずその私たちに真の命を与えてくださるのです。私たちは神様のみ言葉によって、光輝く者とされ、希望を持って、一歩一歩歩んでいきましょう。(笠井元)