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2023.9.24 「神は永遠に覚えておられる」(全文)  ルカによる福音書12:4-7

1:  召天者記念礼拝

 今日は、召天者記念礼拝となります。神様の見守りのうち、多くの兄弟姉妹と共に、この教会で神様に仕えてこられ、そして神様の御心のうちに御許へと召された方々を、共に覚え、記念していきたいと思います。名簿には43名の方のお名前が記載されています。皆さんは、どなたのことを覚え、思い起こしておられるでしょうか。また、自分が神様に召されたときは、どのような形で、どのような方に思い起こしてほしいと思われるでしょうか。私たちが召された方々を思い起こす時、ある意味、その方々は、私たちの内で、今もまだ生きておられると言うこともできるでしょう。今日は、この先に召された方々を覚え、その信仰とその業を思い起こし、そして命の主である神様に礼拝をしていきましょう。

 

2:  あなたは大切な存在である

今日の箇所では、私たちの存在が雀と比べて教えられています。これは雀の存在が小さくて意味のないものだと言っているのではありません。ここから間違えると人間以外の動物や植物は必要のない存在。人間が一番大切な存在、人間がこの世界で偉いのだと勘違いをしてしまうことがあります。まず、私たちは人間も、そしてそのほかのすべての存在が、創造主である神様に造られた被造物であるということを覚えたいと思います。すべては神様によって造られた。神様はそのすべての存在を愛されているのです。

ここでの、人間と雀の対比は、雀の小ささではなく、私たち人間はどこまでも、神様に大切にされている存在であることを教えているのです。4節でイエス様は「友人であるあなたがたに言っておく」(ルカ12:4)と言われました。イエス様は、私たちのことを「友人」と言い、語り掛けてくださるのです。イエス様が人間のことを「友」と呼ぶ箇所は、もう一つ、ヨハネによる福音書の15章にあります。そこではこのように言われるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:13-14

イエス様は「わたしは自らの命を捨ててでも、あなたの『友』となる『友』であり続ける」と言われているのです。この世の関係に完全なものはありません。時に、絶対裏切らないと思っていた友人からも、裏切られることもあります。それは友だけではなく、親、兄弟との関係も壊れてしまうことはあるのです。そして、私たちは、「壊れることはない」と思っていた関係の中で、裏切り、人間関係の破綻が起きる時に、人を信じることができなくなることがあり、生きる希望をも失ってしまうことがあるのです。

しかし、イエス様は、「あなたは私の友である」とし、「私は、自分の命を捨ててでも、あなたを守る」、「あなたを愛している」、「あなたは私にとって大切な存在です」と教えられているのです。私たちの救い主イエス・キリストは、決して裏切ることはありません。私たちが本当に信じることができる方、信じて裏切られない方は、この方のみなのです。

 

私たちすべての者は、イエス・キリストによって愛されている。そしてその友とされているのです。このイエス様の想いは、私たちの家族、友人、そして、召された人、今、共に生きる人に向けられます。そして、それだけではなく、私たちが、受け入れられないような存在の方も、私たちが人間として憎しみ、恨み、共に生きることはできないといった方にも、そのすべての人間に向けられた、愛の想いなのです。すべての人間がキリストに愛され、キリストはすべての人間の友となられたのです。私たちが愛した、すべての召された人々も、キリストの友として、キリストが命をかけてまで愛された存在。神の前にあって、大切な者とされているのです。

 

3:  何を畏れるのか

そして、イエス様は、友人として、私たちにこのように言われます。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(ルカ12:4)「体が殺されること」。それは「死」を意味します。ここでは、その「死」を恐れることはない。またそれ以上何もできない人間を恐れることはないと教えます。今、ここには、ご遺族として、家族が召され、「死」によって、悲しみと痛みのうちに生きてこられた方が、集っています。そのような人に向かって「死」は恐れるものではないと言うことは、心情的には間違っていると感じるのですが・・・。ただ、聖書は、先ほどの雀と同じように、「死」は恐れることもない小さな事柄だというのではなく、それ以上に、人間を地獄に投げ込む権威を持っている方を畏れなさいと言われているのです。

死を越えて働かれる方。つまり、人間の生と死を自由に選び取り、そしてその死の後に、人間の存在を認めることも捨てることもできる、権威を持っておられる方。もっと簡単に言えば、「永遠の死」、それは神様との関係の永遠の断絶、永遠の孤独と言ってもいいかもしれません。その虚しさを与える権威を持っている方を畏れなさいと言っているのです。

神様は、人間を永遠に捨て去る権威をもっておられる。それは同時に、人間を永遠に覚え、その存在を大切に覚え、「あなたを愛している」と語り掛けて続ける権威を持っておられるということでもあるのです。そして、神様は、その権威をもって、人間を愛される道を選び取られたのです。決して人間を一人とせず、孤独にはしておかない。必ず共にいて、あなたを愛してくださるのです。神様はこの権威をもって、死を打ち破られたのです。神様は、この世にイエス・キリストを送ってくださいました。そして、イエス・キリストは十字架によって死を受けられ、そして復活されたのです。その復活によって、神様は、死に勝利されたのです。

この復活の権威をもって、神様は、この世で死に、失われていく者を見捨てるのではなく、死を受けた者と共に歩む道を選ばれた。そして、「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたの友である。わたしはあなたを忘れることはない。」と教えられているのです。私たちは、この方、死してなお、私たちを愛し、その存在を認め、大切にしてくださる方を畏れたい。その方に目を向けていきたいと思うのです。

 

4:  神は忘れない

 神様は、どれほど小さな存在であっても、愛する私たち、被造物を、忘れられることは決してありません。それは召された者も、今生きる私たちも、そしてこれから生まれ、生きる者をもです。私たちの髪の毛一本も忘れることはないのです。

私の知り合いの方の話となりますが、突然の病により視力を失われた方がいました。突然の不幸に、生きる気力を失ったのでした。しかし、この御言葉「あなたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というみ言葉を聞いて、生きる力をもう一度与えられたということでした。 視力を失った時、その人は、真っ暗闇の中、生きる意味を見失っていたのです。「自分は何をするために生きているのか、なぜ生きていなければならないのか、自分が生きる意味はない」と考えたそうです。ただ、その方は、「今思えば、この時の自分は、できること、できないことに生きる価値を持っていた。目が見えないことによって持ったのは、目が見える人に対する劣等感と、何もできないと考えていた自分のみじめさ」だったそうです。 

そのようなある時、このみ言葉「神様は、あなたの髪の毛の一本も忘れることはない」という言葉から、「わたしが何ができても、何もできなくても、わたしは神様に愛されている」ということを知ったということでした。どこまでも、どのようになっても神様は私を愛してくださっているのです。

私たちは今、召された人々を覚えます。それは、その方々が愛されてきたこと、そして今も愛されているということ、同時に、私たちも愛されていることを、今もそして永遠に、私たちも愛され、共に生きて下さっている方がおられることを教えられるのです。わたしたちは、召された者も、今生きる私たちも、すべての人間が、神様に覚えられて、愛されていることを覚えたいと思います。

今、この世界には、争いが絶えません。人が人を傷つける行為が続いています。私たちは何を思えばいいのでしょうか。私たちは、どのような者の髪の毛一本も神様は忘れることなく、愛されているということを覚えて歩んでいきたいと思います。そしてそこに、命の尊さと、大切さ、その存在の意味を覚えましょう。(笠井元)