1: 召天者記念礼拝
今日は召天者記念礼拝です。神様の御心のうちに御許へと召された方々を、共に覚え、記念したいと思います。皆さんは、どなたのことを思い起こしておられるでしょうか。私たちが召された方々を思い起こす時、ある意味、その方々は、私たちの内で今もまだ生きておられると言うこともできるでしょう。
今日は、この先に召された方々を覚え、その信仰とその業を思い起こし、命の主である神様に礼拝をしていきましょう。
2: あなたは大切な存在である
人間と雀の対比は、雀の小ささではなく、私たち人間はどこまでも、神様に大切にされている存在であることを教えているのです。
イエス様は「友人であるあなたがたに言っておく」(ルカ12:4)と言われました。イエス様は、私たちのことを「友人」と言い、語り掛けられているのです。この世の関係に完全なものはありません。絶対裏切らないと思っていた友人から裏切られることもあります。しかし、イエス・キリストは、決して私たちを裏切ることはありません。私たちが愛した、すべての召された人々も、キリストの友として、キリストが命をかけてまで愛されている大切な存在なのです。
3: 何を畏れるのか
「体が殺されること」は「死」を意味します。ここでは、その「死」を恐れることはない。またそれ以上何もできない人間を恐れることはないと教えます。聖書は、先ほどの雀と同じように、「死」は恐れることもない小さな事柄だというのではなく、それ以上に、人間を地獄に投げ込む権威を持っている方を畏れなさいと言われているのです。神様との関係の永遠の断絶、永遠の孤独と言ってもいいかもしれません。その虚しさを与える権威を持っている方を畏れなさいと言っているのです。
神様は、その権威をもって、人間を愛する道を選び取られたのです。決して人間を一人とせず、孤独にはしておかない。必ず共にいて、あなたを愛してくださるのです。私たちは、死してなお、私たちを愛してくださる方を畏れたいと思います。
4: 神は忘れない
神様は、どれほど小さな存在であっても、愛する私たち被造物を忘れられることは決してありません。それは召された者も、今生きる私たちも、そしてこれから生まれ、生きる者をもです。私たちの髪の毛一本も忘れることはないのです。私たちは今、召された人々を覚えます。それは、その方々が愛されてきたこと、そして今も愛されているということ、同時に、私たちも愛されていることを覚えるということです。ここに命の尊さと、大切さ、その存在の意味を覚えましょう。(笠井元)