1: エレミヤの時代の状況
エレミヤの時代は、すでに北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされた後の時代でした。北イスラエル王国が滅ぼされる中、南ユダ王国はなんとか生き残ったのです。このことから、南ユダ王国の人々は「自分たちは神様に選ばれている」という思いを持つようになってしまったのです。そのような思いは、自分たちが偉い存在であるという勘違いを生み出し、結果として、神様からも離れていくこととなってしまったのでした。このような南ユダの人々にエレミヤは3章、4章では「立ち帰れ」「悔い改めよ」と語り掛けるのです。
2: 正義を行い、真実を求める者はいなかった
神様はエレミヤに、「一人でも正しい者がいればこの民を赦そう」と言われるのです。創世記18章において、アブラハムは、ソドムとゴモラを滅ぼすことのないように神様と交渉し、最後は10人でも正しい人がいればソドム全体が赦されることになったのです。
これに対して、今日の箇所では、神様は「ただの一人でさえもいればこの民を赦そう」と言われたのです。これはただの一人もエルサレムには、正義を行い、真実を求める者がいないということです。また、イスラエルの過ちは、ただ神様を信じなかったということではなかったのです。「主は生きておられる」と信じているように見せていながらも、口先だけで、内実のない信仰となっていたのでした。
3: 神の裁き
エレミヤは人々が神様に従うことができないのは、神様をきちんと知ることが出来ていないからだとし、知識を得ている者たちなら神様のことを主として生きていると考えたのでした。しかし、「彼らも同様に軛を折り、綱を断ち切っていた。」(エレミヤ5:5)とあるように、誰も神様を主とはしていなかったのです。神様はこのような人間の背きに対して「必ずその悪に報いる」と教えられます。神様は人間の背きを見過ごされる方ではないのです。
4: ただ一人の正しい人
神様は人間に裁きを下されます。イエス・キリストがすべての人間の罪を引き受けられ、十字架で死なれた。これが、神様の選ばれた裁きの業でした。神様は「ただの一人でさえも、正しい人がいるならば、すべての人を赦そう」とし、その一人としてこの世にイエス・キリストを送ってくださったのでした。
5: 赦しを受けて、赦す力を得る
私たちはこの赦しの上で生きることが許されているのです。私たちは、イエス・キリストを自らの主と告白して生きていきたいと思います。私たちの生きる道は赦された者として「赦す力」を頂いて生きる、生き方ではないでしょうか。「赦す力」は人間を憎しみから解放します。私たちは、赦されている恵み、変わることのない愛を頂き、感謝のうちに生きていきたいと思います。(笠井元)