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2023.10.8 「あなたは、むさぼってはならない」(全文) 出エジプト記20:1-2、17

モーセの十戒は最後の戒めとして「隣人の家を欲してはならない」といいます。口語訳では「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と翻訳しています。最近は、「むさぼる」という言葉はあまり使われなくなったように思います。しかし、かなり前の事になりますが、米国オバマ大統領が、「グリード」(greed強欲)という言葉を用いました。いわゆるリーマンブラザーズの倒産の原因を作ったウオール街の金融業界の指導者たちが、多額な税金による救援を受けながらも億単位のボーナスをもらっていたことをあてこすったわけです。その後はどうなったかというと世界中で貧富の差が益々拡大しています。人間の強欲はあまし変わらず、汚職なども後を絶ちません。まさに「むさぼり」の問題です。「むさぼる」という言葉があまり使われなくなったのは、実は誰もが「むさぼり」から無縁であるからではなく、だれもが余りにも「むさぼり」に捕われ、「むさぼり」を問題に出来ないほど「むさぼり」が蔓延っているからなのかも知れません。だからこそ、今日、私たちは「あなたは隣人の家を欲してはならない、むさぼってはならない」という聖書の呼びかけに耳を傾ける必要があるのです。「あなたは隣人の家を欲してはならない」これが今日、私たちが聞くべきみ言葉です。

 本題に入る前に、 まず、心に留めておきたいことは、私たちが読んでいるテキストでは、「あなたは隣人の家を欲してはならない」に引き続いて、「隣人の妻」が出てくることです。このような文脈ですと、妻も夫の財産の一つのように読まれてしまいます。事実、当時はそのような男性優位の社会でした。そこで、申命記5:21(新共同訳290頁)を見てみましょう。そこでは、「あなたは隣人の妻を欲してはならない」とまず言われ、それから、また隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」と言われています。申命記では、女性が男性の持ち物と看做されることを避ける努力がなされているのかも知れません。また、出エジプト記では「むさぼる=ハマード」という言葉だけが使われ、申命記では隣人の妻には「ハマード」という動詞が用いられてはいますが、あとは、「アヴァ=欲しがる」という動詞が用いられて両者が区別されています。ある学者は「欲しがる=アヴァ」は、私たちの思い、あるいは感情を意味する一方で、「ハマード」はしばしが行動に導いてしまう動機あるいは感情を意味していると言います。単に何かを欲することではなく、限界を超えて欲望し、行動に出してしまうことが十戒で禁じられているといえるでしょう。

 

1.「むさぼり」とは何か

 『広辞苑』によると、「むさぼる」とは、「欲深くほしがる、際限なくほしがることと定義されています。例としては「むさぼるように食う」、「暴利をむさぼる」などが挙げられています。聖書は禁欲主義を勧めてはいません。食べること、眠ること、利潤を得ること等は人間が生きる上で、認められていることであり、大切な行動です。ですから、私たちには、必要以上に食べすぎてしまう、他者を無視して、徹底的に自分の利益を追求してしまう。限度を超えて「際限なくほしがる」ことが問題なのです。新共同訳は「欲しがる」と翻訳されていますが、やはり欲しがることが限度を超えてしまうという意味では「むさぼる」という日本語の方(口語訳・文語訳)がぴったりします。

「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」という戒めはだれかが侵入してくることから人々の結婚生活、家族、財産等を守ることを意図していると言って良いでしょう。私たちは限度を超えて欲しがり、自分の欲望を野放しにしてしまうのです。「ハマード」には「留め金をはずす」という意味があるそうですが(関田寛雄)、欲望の留め金がプチンと外れてしまうことが「むさぼる」ことです。私たちは隣人からむさぼられることには敏感ですが、隣人の人格と自由を認めることには結構、鈍感なのではないでしょうか。今日では社会的に広がる、ある意味では国境を超えた「むさぼり」が問題になっているのではないでしょうか。10月は収穫を感謝する月です。収穫はルツ記の「落穂拾い」ではないですが、聖書は、収穫の一部を分かち合うことも問いかけています。2023年世界の食糧安全保障と栄養の現状(SOFI)によりますと22年、十分な栄養を取れない状態にある飢餓人口は6億9千100万人~7億8千300万人に上ります。コロナウイルスや異常気象、世界の穀倉地帯といわれるウクライナ戦争の影響もあるでしょうが、世界総人口の9.2%に上ります。中程度の栄養失調を含めますと24億人が食糧不安の中にあります。他方、ちょっと古い資料ですが、犬養道子さんの『人間の大地』によりますと、日本を含めて北の先進国の中産階級の人たちが家庭、学校給食、レストランなどで1年間に棄てる食糧は70億ドル(現在の円ドル計算では膨大な額です)とのことです。私たちの豊かさを支えるために、南の国々、そして現在では北の国々の貧困層は飢餓の中にあるわけです。そして、食べすぎを解消するためにジョギングやエアロビクスをしているというわけです。ただし病気の方もあるので人を簡単に批判することは禁物です。スーパーマーケットの過剰パックやプラスチックバッグの有料化も進んではいますが、あまりに美しくて高い果物、便利な自動販売機やアルミニウムの缶ジュースなど、そのような贅沢を支えるために、化学肥料などで土地が汚染され、河川がだめにされ、大気が汚染されているのです。原発事故の汚染水も話題になっていますね。もし、神の戒め「むさぼるな」に耳を傾けなければ、私たちの社会はいったいどうなってしまうでしょうか。パラパラとめくっていた「回心への招き」という本の中で次のような言葉がありました。「事実、ほとんどのコマーシャルは直接的に、7つの罪、つまり、誇り、欲望、ねたみ、怒り、むさぼり、大食(貪欲)、そして怠慢の1つかそれ以上に向かってアピールする。そして、それらの宣伝の間に挟まっているテレビ番組は、それらとは、全く違ったものであろうか、いや、テレビの説教者も繁栄こそ神の祝福の証であり、陰ながら、貧しさは、神から疎んじられているしるしであると告げるのである」。アウグスチヌスは、「富む者にとっての余剰、贅沢は貧者にとって必要不可欠品である」と言っています。古代の人間たちもきっと同じ問題を抱えていたのでしょう。

企業活動も問題です。東北大学のキリスト者であり政治思想史学者であった宮田光雄先生は、日本の企業は「最大利潤」を求め、「適正利潤」を求めることを忘れていると警告しています。そして、中小企業は頑張っているのに、大企業は、企業が生き残るためと称して、低賃金労働者を使ったり、派遣切りと言って人を「もの」のように扱っているわけです。どうしても私たちの欲望は「留め金」が外れてしまいがちなのです。そうであれば、「むさぼるな」という戒めは、私たちがもう聞かなくても済む様な、死んでしまった言葉ではなく、私たちは放っておいたら、いつも留め金が外れてしまい、欲望の奴隷になってしまうということに気付かせてくれます。この戒めは、神によって解放された自由、そして平等な社会、生活へと導く招きの言葉なのです。「むさぼり」とは自分自身には自由のように見えても、たとえ、法律違反ではないにしても、他者のいのちをだめにしてしまうほど、欲望の留め金が外れてしまっている恐ろしい事柄なのです。 

 

2.「むさぼり」の原因と克服

では、なぜ、私たちは必要以上に欲してしまい、隣人の生きる権利や自由を奪ってしまうのでしょうか?「むさぼり」の原因はどこにあるのでしょうか? わたしたちは毎回、十戒を学ぶ際に、それぞれの戒めは、十戒の序文から読まねばならないことを学びました。私たちが自分たちのいのちを神から受け取ろうとせず、自分の力で守ろうとするときに、「思い煩い」と「貪り」のワナに陥るのです。私たちのいのちは、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と言われる神から来るのであり、神様との関係の中にあるのです。そして、この神との共なる生き方が、隣人と共なる生き方へと私たちを導くのです。このように考えると、「むさぼり」の背景には私たちの深い心の不安、欠乏感があると言ってよいでしょう。「欲しい」を意味する I want が実は「私は欠乏している」を意味することは当然と言えば、当然ですが、英語の意味を知って、私には驚きでもありました。この第十戒は、だれがあるいは何がわれわれの心を支配しているか?を問いかけており、この戒めのテーマは、人生に対する私たちの基本的態度を問題にしているのだと言えるでしょう。むさぼることは、われわれの心の最も深いレヴェルで、誰が、何が私たちを支配しているかという問いに関連しているのです。そして我々のいのちは最も価値あるもの(valuable)であり、しかし、もっとも繊細で、傷つきやすい(vulnerable)ものなのではないでしょうか。(Lorenzen, Toward A Culture of Freedom, 167)。そのように意味で、この戒めは、モーセの十戒の要約であるように思います。殺すこと、盗むこと、姦淫すること、そして偽証することの根本的な原因は実は「むさぼり」にあると言ってよいでしょう。私たちの心が、神の恵みの愛に満たされていなければ、私たちの心の飢え渇きは決していやされることはないのです。しかし、もし、私たちの心が、神の恵みの愛に満たされていれば、私たちは「むさぼり」から解放されるのです。足ることを学び、慎ましく、シンプルに生きる幸いです。私の欲望が私を動かすのではなく、わたしを強くして下さるお方が、私たちの心を満たし、私たちに足ることを教えてくれるのです。不安に満ちた心がイエス・キリストの恵みを溢れるほど浴びて癒されている、私たちの心が、イスラエルを奴隷の家から解放した主なる神の憐れみで満たされていることが大切なのです。

 

3.分かち合って生きる 隣人の発見

 「むさぼり」から解放されるためには、私たちを豊かにして下さる神を発見するだけでなく、私たちの隣人、一人ひとり顔をもっている隣人と出会うことも大切です。フランスに住むユダヤ人哲学者のレヴィナスは他者の「顔」が私にとっての「神」であると言っています。神はどこか遠い処に存在するのではなく、私たちが出会う人間の「顔」が神であるというのです。レヴィナスの研究者である内田樹の『ためらいの倫理学』を富むことを勧めます。神様が私の前に具体的な顔を持った隣人を置いていて下さることは実は素晴らしいことです。そのような隣人は私の欲望の対象ではなく、いのちの恵みを分かち合う相手なのです。「分かち合う」ことが重要です。私は、1947年の生まれですので、戦争中ほどではありませんが、小さい頃はあまり物がありませんでした。それに4人兄弟ですから、食べ物、特に、おやつなどはいつも一番多いものの取り合いでした。昔の牛乳瓶は1合180ccですが、弟のために牛乳を半分残す、5勺で止めるのがつらい感じでした。先に飲む私はちびちび飲みながら半分よりちょっと多めに飲むのですが、弟たちは恨めしそうな顔をしていました。現代の子どのたちは牛乳を半分飲んで弟の分として残すというようなことがあまりないでしょうから、限度を超えて欲しがるなどということがわからないかも知れません。しかし、逆に言えば、それほど飽き足りており、むさぼりが「むさぼり」として自覚されにくいのだとも言えるのではないでしょうか。途中で止めなくてはならない、留め金を外してはならない、そこに隣人がいるということが実は、私たちを整えてくれるのです。

 

 私たちキリスト者は日本では極端な少数者です。「むさぼるな」と言われても私たちには一体何ができるだろうか考え込んでしまいます。しかし、すべての出来事、すべての変化は、個人の決断、個人の回心から起こるのではないでしょうか。私たちはもう一度、新しく「むさぼるな」とのみ声をイエス様から聞きたいと思います。「むさぼるな」とのみ声を聞けること、私は私の欲望の中に見捨てられてはいないのだということは、とても嬉しいことなのです。私のエゴイズムを阻む隣人が与えられていることはなんと大きな喜びでしょうか。神様から与えられている恵みといのちを感謝と喜びをもって受け取り、分かち合うために隣人が与えられていることを感謝しましょう。今週1週間、ものを無駄にしないこと、わたしたちの出会う隣人、神様が私たちの前に備えて下さっている隣人を大切にし、分かち合うことを考え、それによって神様と自分自身と隣人とを大切にするように生活しましょう。(松見俊)