1: パウロの熱い思い
パウロは2節で自分の熱い思いを、男女の関係、結婚に比喩して語ります。結婚することが正しい人間関係であるとする考えを土台とした、このような表現は問題があります。聖書は時代、文化等、人間社会の限界のうちで記された書物であることを知っておく必要があり、その上で今日の箇所を見る必要があります。
パウロはコリントの教会を純潔な処女として、夫キリストに献げ、婚約させたとするのです。パウロは、自分をこの関係の仲人、または花嫁の父親として考えているのでしょう。そして、婚約は成立させたが、いまだ結婚には至っていないと考え、それまであなたがたを守りキリストに手渡す仕事が自分にはあるとするのです。パウロは、自分がキリストを伝え、その設立者であった者として、コリントの教会がキリストにいつまでも忠実であることを、熱い思いをもって願っていたのです。
2: サタンの魅力的な働き
パウロは13節で「偽使徒」、「ずる賢い働き手」とし、15節では「サタンに仕える者たち」とする者たちが、4節で「異なったイエス」「違った霊」「違った福音」を語ると言います。偽使徒たちは、福音を否定したのではなく、パウロと違うイエス、霊、福音を語ったのです。
内容を想像するならば、ガラテヤ書ではパウロは「行いによって義とされる」ということ批判しています。またいわゆるグノーシス主義というキリストの人間性を認めないで知識によって救いが得られるといった考えだったかもしれません。また異言を話すといった霊的行為による救いを重要視した考えだったのかもしれません。
ここでは、その内容がどういうものであったか確実なことは記されていませんが、一つ言うなれば、その言葉は人間にとって魅力的なものだったのでしょう。パウロは3節で【エバが蛇の悪だくみで欺かれたように】(Ⅱコリント11:3)と言いますが、エバはサタンに欺かれたのです。エバはサタンに「脅された」のではなく、「唆され」、「魅了され」たのです。人間にとって魅力的なものと感じる時、私たちが素晴らしいと思うものに出会うとき、私たちは、それが本当のキリストによるものなのか気を付けて考える必要があります。
ただ、イエス、霊、福音が間違っているかどうかを判別することは簡単なことではないのです。キリスト教会の歴史を見ても、多くの異端が現れてきましたし、逆に、当時は異端とされながらも、後に認められていった信仰もあるのです。プロテスタントもそうですし、バプテストは特に異端、「間違っている」とされてきた教派です。教会は、外からの迫害だけではなく、内からの腐敗に気をつけなければならないのです。
3: 生きた関係で繋がっていたパウロ
6節では、パウロが批判されたのは内容ではなく、話し方が素人であったとします。パウロは論理的に話すよりも、感情的に話してしまう者であったとされます。
現代聖書注解では6節での「知識」とは神様の知識を意味し、神様を知ることは、友達を知るのと同じような人格的、生きた温かい交わりのことであるとしています。
パウロは自分の話し方は素人であっても、自分は神様との生きた交わりを持っており、そのうえで福音を語っていることを強調したのでした。わかり易く、面白く、知的な学びにもなる話をいくらしたとしても、そこに神様と自分の内実ある関係がなければ、それは全く虚しいものとなってしまうのです。私たちはまず神様との生きた関係を持ち、そこから福音を語りたいと思います。
4: 無報酬で働くこと
7節からは、パウロは無報酬で働くことについて話を進めます。(Ⅱコリント11:7-9)パウロは自分を論駁する者たちは多くの報酬を要求していたということから、自分たちはそのようなことはしないとしたのです。パウロはⅠコリント9章では、福音を語る者が経済的援助を受けることは当然の権利だと主張してもいます。(Ⅰコリント9:3-18)その上で、今コリントに来ている者たちと自分たちは違うと伝えるためにも、自分たちは無報酬で働くとしたのです。
ただ、このときのパウロの言葉、【他の諸教会からかすめ取るようにしてまで】(8)、【マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれた】(9)という言葉がコリントの人々に対して、パウロたちの正しさを語ることになっていたかどうかは疑問が残ります。実際、コリントの人々はこのように報酬を受け取らないパウロを見て、そこからこの者は正当な使徒ではないのではないのかという疑問を持つこととなったのでした。
パウロの伝えたかったことは、コリントの人々に負担をかけたくないということであり、あなたがたを高め、自分を低くして、福音を伝えるということです。自分たちは、自分たちを批判する者たちとは違うということ。報酬目当てで働いているのではない。ただあなたがたを愛している。愛の福音を伝えるために生かされていると伝えたかったのです。(笠井元)