1: み言葉を聞く
現在、ルカによる福音書から続けて学んできていますが、8章では、ここまで「種を蒔く人」のたとえ、「ともし火」のたとえが語られてきました。この中で、このように言われてきました。8節【「聞く耳のある者は聞きなさい」】(ルカ8:8)、15節【8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」】(ルカ8:15)、18節【8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。】(ルカ8:18)
ここから見るように、8章では「み言葉を聞く」ということについて、語られてきているのです。 そして、今日の場面となります。ここでイエス様はこのように言われました。21節【「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」】(ルカ8:21)イエス様は、「み言葉を聞く」ということの最後として、「神様のみ言葉を聞いて、行う者こそが、私の母、私の兄弟・・・つまり、その者こそ、私の家族だ」と言われたのです。
教会学校では、10月からイザヤ書からの学びとなっています。その前、7月~9月までは創世記から学んできました。先月9月24日の教会学校では創世記11章の「バベルの塔」のお話から学びました。バベルの塔のお話はご存じの方も思いますが、世界中の人間が同じ言葉を使う中、人間は、【「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」】(創世記11:4)と言い、「有名になろう」としたのです。そして、その姿を見た、神様が、【「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」】(創世記11:6-7)と言われ、言葉を混乱させ、人々の言葉を聞き分けられないようにされたのです。そして人々は、塔の建設をやめ、散らされたのでした。人々が、お互いの言葉を聞くことが出来ない中、その社会は崩壊していったのでした。
私たちは、今この社会の中で、お互いの言葉を聞くということがどこまで出来ているでしょうか。ここで考えたいことは、ただ、言葉を言葉として聞き、理解することができているかどうかではありません。お互いの語っている言葉の、本当の意味、その中にある心、思いをどこまで理解できているのでしょうか。皆さんには、家庭、学校、会社といった、自分の生きる、その社会において、自分の言葉を聞いてくれる人がどれだけおられるでしょうか。または、皆さんは、どれだけの人の言葉を真剣に聞いておられるでしょうか。実は「聞く」ということは簡単なことではないのです。D.ボンヘッファーは、「聞く」ということは一つの「奉仕」だと言っています。聞くということは、語る以上に、真剣な姿勢と労力を必要とすることがあります。私たちは、どれほどの真剣さと労力を用いて、神様のみ言葉に耳を傾けているでしょうか。イエス様は言われます。【「聞く耳のある者は聞きなさい」】(ルカ8:8)
2: 神様の愛を土台とした関係
今日の箇所で、イエス様は、「神様のみ言葉を聞いて、行う者こそが、自分の家族だ」と語ったのです。ただ、現代は、この「家族」というくくりに疑問を持たれる方が多くおられます。皆さんにとって、「家族」であるということは、どれほどの重さを持っているでしょうか。私の友人には、生まれた時から施設で育てられ、父親も母親も知らない人がいます。彼は、自分にとって、「家族」という制度、形、単位自体がよくわからないし、必要ないと言います。現代は、この家族という枠組み自体が差別を生み出しているとも言うのです。「なぜ結婚をしなければならないのか」「なぜ子どもがいなければならないのか」・・・など、この「家族」というくくりで関係を求めること自体が、差別を生み出しているとも言われます。 そのため、もしかしたらこのイエス様の「わたしの母、兄弟である」という言葉も、現代では、「そんな必要はない」と思われる方もおられるかもしれません。
ただ、この時のイエス様のおられた時代のイスラエルにおいては「家族」、そして「血縁関係」はとても重要な関係を持っていました。それこそ、イスラエルは神様の民とされ、その血に繋がることこそが、救いに入れられると考えていたのです。新約聖書の最初、マタイによる福音書1章1節では、【アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。】(マタイ1:1)とあるように、イエス様は、アブラハムの子であり、ダビデの子であると言い、その系図がまず記されているのです。 そのような意味では、この聖書の時代において、血縁関係、血筋、そして家族のつながりというものは、非常に大切にされていたと言うことができるのです。
今日の箇所では、そのようなとても大切な関係を持つ、イエス様と血縁関係のある母、兄弟がイエス様のもとにやってきたのです。本来ならば、喜んで迎え入れるはず、またそうしなければならないはずなのです。しかし、イエス様は、このような状況で、【「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」】(ルカ8:21)と言われたのです。これは当時の考え方からすれば、衝撃の言葉でありました。イエス様は、家族という枠組みを越えて持たれる、神様による関係があることを示されたのです。
ただ、よくよく考えてみると、これまでも聖書は、この家族という枠組みを越えて、神様に従うことを教えてきているのです。それこそ、それは、イスラエルの信仰の父とされるアブラハムから始まっているのです。アブラハムは、神様の言葉に従い歩き出したのです。アブラハムは75才、現代で言えば後期高齢者とされる年に、神様の声、神様のみ言葉を聞きました。神様は、【「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」】(創世記12:1)と言われたのです。家族、血縁関係を越えて、神様に従うことを勧める、神様の言葉です。アブラハムはこの神様の言葉を「聞いて、従っていった」のです。これがアブラハムの信仰です。アブラハムは、今日のイエス様が言われたように、「神様のみ言葉を聞いて行った」のです。アブラハムは何よりも神様との関係を選び取ったのです。
人間関係はとてももろいものです。家族、親友といった決して壊れることのないと思っている関係であっても、ちょっとしたことで、壊れてしまうものです。私の知り合いには、大親友だと思っていた人の裏切りによって、人間関係を作ること自体が怖くなり、家から出ることができなくなり、結果、大学を辞めることになった人もいます。この世において、人間を土台とした関係に「絶対壊れない」という関係はないでしょう。それは家族でも変わりありません。そのような私たちに、イエス様は【「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」】(ルカ8:21)と教えてくださっているのです。それは、壊れることのない関係、それはただ神様との関係だけであるということです。どんなことがあっても、どれほどのことをしても、決して私たちを愛することはやめられない方、「わたしはあなたを愛している」「私があなたと共にいる」という言葉を注ぎ続け、事実、共に生きて下さる方。それは神様のみなのです。そして、この神様の言葉を聞いて行う人が、母であり、兄弟である。つまり、神様を土台とした関係に生きることを教えるのです。
3: 神様のみ言葉の中心にあること
私たちはまず、この神様のみ言葉を聞いていきたいと思うのです。ただ、気をつけなければいけないことは、当時、イエス様に敵対し、最終的に、イエス様を、十字架にかけていった、律法学者、ファリサイ派の人々もまた、神様のみ言葉を聞いて、行おうとして人々だということです。 これまで、多くの人々が、神様の教え、神様の言葉に従おうとしながらも、そのうえでお互いを傷つけあってきたのです。キリスト教もまた、何度も「これが神のみ言葉だ・・・」として、人を傷つける道へと進んでいったのです。
ロシアがウクライナに侵略戦争を始めた時、ロシアのプーチン大統領はヨハネによる福音書の15章の言葉を使い、「聖書に『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)とある。」と言って、兵士を戦場へと送りこんだのです。聖書の言葉を神様のみ言葉として聞いていくことは、その聞き方によっては、隣の人を傷つけ、間違った道へと進んでしまうという、危険性も伴うということを覚えておきたいと思います。
そのうえで、聖書の教える言葉としての「中心」として、この言葉を聞きたいと思います。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。】(ヨハネ3:16-17)聖書からみ言葉を聞いていくための土台として・・・イエス・キリストの十字架と復活という事実、神が人となり、人のために死に、復活され、人間を救い出されたという、まぎれもない事実に基づいて記されているということを中心において、聞いていく必要があるのです。神様は、ただ一方的な恵みとして、人間を愛し、人間に救いを与えられたのです。私たちは、この神様の愛のみ言葉に招かれているのです。この神様の愛を土台として、私たちは聖書に耳を傾けるのです。
そしてまた、イエス様は、このように言われました。【「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」】(マタイ22:37-40)
「神を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」。「愛に生きる」。これが、私たちに与えられている、神様のみ言葉です。神様に愛されているという土台の上で、「神を愛し、人を愛するように」、教えているのが聖書の言葉なのです。
4: 神の言葉を喜ぶ
私たちは、この神のみ言葉を聞き、そして行っていきたいと思います。それは、ただ「何かをしなければ・・・」ということではないのです。「何かをしなければいけない」といった律法的な教えは、キリストの十字架によって廃棄されたのです。私たちが生きる道。それはただ、神様の恵みを喜び生きていくということです。神様がいつも共にいて下さっている。神様が必ず愛してくださっている。このことを喜びましょう。そのとき、おのずと私たちの行動は変えられていくでしょう。「こうしなければならない」ではなく「こうしたい」という思いを与えられるでしょう。
イエス様が語られたお話の中に放蕩息子というたとえ話があります。放蕩の限りを尽くした息子が、心を入れ替えてもどってきた時、その父親は、喜んで受け入れたのでした。しかし、そのことを喜ぶことが出来なかった人がいました。その兄です。「自分はこれまで何ももらったことがない・・・それなのに、遊びまわってきた者がかえってきたら、そのことを喜び、宴会をするなんておかしい・・・」これが兄の怒った理由です。とてもよくわかります。ただ、そのような兄に父親はこのように言われました。【『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。』】(ルカ15:31)
「わたしがいつもあなたと共にいる」。これが神様から与えられている最大の恵みなのです。主イエス・キリストが、共にいてくださる。「わたしがあなたを愛している」。私たちに必要なものとは、この「変わることのない愛」なのではないでしょうか。私たちはこのみ言葉を聞きましょう。そして、いつも喜んで生きていきたいと思います。(笠井元)