1: み言葉を聞く
ルカ8章では「み言葉を聞く」ということについて語られてきました。イエス様は、「み言葉を聞く」ということの最後として「神様のみ言葉を聞いて行う者こそが、私の母、私の兄弟だ」と言われたのです。私たちはお互いの言葉を聞くことが出来ているでしょうか。お互いの言葉の本当の意味、その中にある思いを理解できているでしょうか。聞くことは、語る以上に、真剣な姿勢と労力を必要とすることが多々あります。私たちはどれほどの真剣さと労力を用いて、神様のみ言葉に耳を傾けているのでしょうか。
2: 神様の愛を土台とした関係
現代は「家族」というくくりに疑問を持たれる方もおられます。家族という枠組み自体が差別を生み出しているとも言われています。イエス様の「わたしの母、私の兄弟」という言葉も、現代では「そんな必要はない」と思われる方もおられるかもしれません。
ただ、イエス様のおられた時代においては「家族」、「血縁関係」はとても重要な関係とされていました。そのうえで、聖書は、この家族という枠組みを越えて、神様に従うことを教えているのです。神様の言葉を聞いて行うこととは、神様の愛を土台とした関係に生きることを教えているのです。
3: 神様のみ言葉の中心にあること
当時、イエス様に敵対し、最終的にイエス様を十字架にかけていった、律法学者、ファリサイ派の人々もまた、神様のみ言葉を聞いて、行おうとして人々なのです。聖書を神様のみ言葉として聞くことは、聞き方によっては人を傷つけてしまうこともあるということです。
そのうえで、聖書からみ言葉を聞いていくための土台として、イエス・キリストの十字架と復活という事実、神が人となり、人のために死に、復活され、人間を救い出されたという、まぎれもない事実に基づいて記されているということを中心に置いて、聞いていく必要があります。イエス様は「神を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。これが、私たちに示された神に従う道です。
4: 神の言葉を喜ぶ
私たちは神様のみ言葉を聞き、そして行っていきたいと思います。それは神様の恵みを喜んで生きていくということです。神様がいつも共にいて下さっている。神様が必ず愛してくださっている。このことを喜びましょう。そのとき私たちの行動は変えられていくでしょう。主イエス・キリストが、共にいてくださる。「わたしがあなたを愛している」。私たちはこのみ言葉を聞きいていきましょう。そして、いつも喜んで生きていきたいと思います。(笠井元)