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2023.10.25 「パウロの誇り」 Ⅱコリントの信徒への手紙11:16-33

1:  自分が正しいとする過ち

 パウロは、自分を誇ることは愚かなことだとしながらも、パウロを批判する者たちが行うように、自分も愚かな者となり誇るとします。

この世では、自分の中にある何かを誇り、名誉、名声として、自分の価値を見出します。コリントの教会には「自分こそが正しいキリスト者だ」と言う人々が現れていたのです。そしてコリントの教会の人々は、そのような言葉を信じて受け入れ、そうではないパウロを批判するようになってしまっていたのです。

20節でコリントの人々は、そのような者たちの主張を受け入れ、「奴隷にされ」、「食い物にされ」「横柄な態度、高慢な態度をされ」「顔を殴りつけられても」それでも我慢していたとあります。

カルト宗教とされる宗教ではこのようなことが行われます。力によって、人を押さえつけ、またそれが正しいと教えていくのです。「マインドコントロール」「モラルハラスメント」と言うことができます。自分が作り上げたルールを相手に強要し、「自分は正しい」「あなたが間違っている」と言い聞かせるのです。

このような問題はもちろん現在の教会でも起こることです。牧師が教会の人々を奴隷のように扱う場合もあれば、その逆の場合もあるでしょう。このような過ちに陥らないためには、お互いが意見を言い合える関係を構築すること、また第三者の目として、連合、連盟に繋がっていることも大切なことです。

 

2:  キリストに忠実に従った苦難の話

パウロは、それならば、そのような者たち以上に、自分はこの世的にも誇ることが出来る者であるとするのです。パウロを批判する者たちは、自分たちこそ神様から選ばれた民であり、パウロは本当のヘブライ人・ユダヤ人ではないと批判したとも考えられています。また、パウロがイスラエル・パレスチナ地方に生まれたのではなく、タルソスで生まれ育ったこと、もともとはキリスト教を迫害する者であったことを批判し、正統なキリストに仕える者ではないとも言ったのです。(Ⅱコリント11:22-23

パウロは、「キリストに仕える者」と自称する者たちの言葉を転用し、自分は「その者たち以上に、キリストに仕える者だ」と言うのです。そのパウロが語ったのは苦労話でした。パウロは23節後半から、これまでの苦労、困難の話をします。(Ⅱコリント11:23-27)パウロは伝道の実績、成功した話をするのではなく、伝道することによって受けてきた苦しみの多さを語ったのです。この世では、自分の成功した話をし、またその成功した数で人を評価します。 

 このような人間的評価に対して、パウロは、自分がどれだけ苦しみを受けてきたかを話したのです。これはただの苦労話ではなく、パウロ自身がどれだけ主イエス・キリストに忠実に生きてきたかを語ったということです。パウロは、自分が受けてきた苦しみ、痛みこそが、自分の誇りとするのです。

私たちは自分の何を誇りとするのか考えてみたいと思います。

 

3:  牧会者 パウロ

パウロは、あらゆる教会に心を向けていました。そして【だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。】(Ⅱコリント11:29)と言うのです。この言葉は新改訳聖書では【だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。】となっています。【喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。】(ローマ12:15)という言葉にある通りです。

パウロは、自分が苦しんだのは、そこに苦しむ人がいたから、そして自分が心を痛めるのは、そこにキリストに躓く人がいるからだと言います。この生き方は、キリストに倣う生き方、キリストに仕え、従う人生と言うことができるでしょう。ここでは牧会者としてのパウロの姿を見ることができるのです。

パウロは、様々な場所に伝道に向かい一つの場所に留まり続けてはいませんでした。そのようなパウロにとって、それぞれの教会の問題のすべてに関わり、修正していくことには限界がありました。私たちは自分のできること、できないこと、神様に委ねることを知ることも大切なことです。

 

4:  弱さを誇る

30~33節は使徒言行録9:23-25の話だと考えられています。この出来事は、パウロにとっては屈辱的な出来事で、この出来事からパウロは「籠に入って逃げるような者」として中傷されたのです。パウロは、自分の誇りはこの「屈辱的出来事」の中にあるとするのです。

パウロはこの後【 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。】(Ⅱコリント12:9)と言います。

パウロは、この自分の弱さの内に「神様の恵みが現わされる」とし、その弱さを誇りとしたのです。私たちは、自分の誇りをどこに置くのか、もう一度考えていきたいと思います。(笠井元)