1: 人間としてのイエス様
イエス様は、弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」と言われ、船に乗り、出発されました。これまで、このルカの8章を見ていくと、イエス様が神の国、福音を伝えながら、町や村をめぐって旅を続けられたことが記されています。そこでは多くの群衆が集まり、イエス様のところにやってきた母、兄弟が近づくことができないほどだったのです。イエス様は、そのような群衆に囲まれる中、今度は湖の向こう側、ゲラサ人の地に向かったのです。それは、ユダヤ人であるイエス様、またその弟子たちにとってみれば、異邦人の地、本来は、関わること自体が律法によって禁止されている、そのような人々のところに出かけられたのです。
イエス様はこの船の中、眠られていました。このイエス様が眠られたという記事は、この箇所の並行記事とされる、マタイとマルコにも同様に記されていますが、それ以外の箇所にはなく、この場面のみとなるのです。イエス様はなぜ眠られていたのでしょうか。このことは様々な解釈がありますが、その一つとして、イエス様が疲れられていたのだろうという考えがあります。確かに船の上であれば弟子たち以外の人に囲まれることもありませんし、それなりに安心して、静かに目を閉じることができたでしょう。
イエス様は、神の子とされ、悪魔の誘惑にも打ち勝たれ、病をいやし、悪霊を追い出してこられました。そしてまた、福音宣教をし続け、神様の恵みを皆さんに宣べ伝えてこられたのです。そのような中、イエス様も、体力的にも、精神的にも疲れられていたのではないかということです。このイエス様が眠られたことから、イエス様の疲れを見る時、人間としてのイエス様の姿を見ることができるのです。
確かにイエス様は人間であられたのです。神の子でありながらも、私たちと同じように、この世に命を与えられ、時に疲れを覚え、食事や睡眠を必要とし、普通に生きておられる方。それがイエス様なのです。ヨハネによる福音書では、イエス様が涙を流されたという記事もありますが、イエス様は、時に疲れられ、時に、悲しみ、涙を流された。そして時に神様に向かって悶え苦しみ、「十字架という苦しみを取り除いてください」とも願うのです。これが人間としてのイエス様です。
今日の前の箇所では、母と兄弟が来られたところで、【「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」】(ルカ8:21)と言われ、この世の家族との訣別の言葉を語られました。しかし、だからといってイエス様の中に、この世の肉体的繋がりのある家族を大切に思う気持ちがなかったのではないのです。イエス様は確かに人間として生まれ、人間として育てられ、その肉体をもって生きてこられた。
そしてそのような人間としてのイエス様だからこそ、私たち人間の心の隅から隅まで理解してくださる方となられたのです。人間としての弱さや痛み、時に嘆き、絶望する。そのような人間として、イエス様は生きて、私たちの心を知っていてくださるのです。
2 神としてのイエス様
この人間イエス様が眠っておられた。それは、とても疲れておられたとも言えます。そしてまた、この湖の上にあって、安心されていたからとも言うことができるでしょう。どんなに疲れていても、私たちも、大きな不安の中ではなかなか眠ることができないことがあると思います。不安や恐れの中ではなかなか眠ることはできないのです。
先日、テレビで、空き巣に何度も入られた人が、「怖くて眠れなくなりました」と言っており、そのため防犯カメラを設置して、犯人を捕まえたというニュースを見ました。恐れ、不安が募る中ではなかなか眠れないものです。イエス様はこの湖を動く舟の上でおられていながらも、安心されていて、眠ることができたのです。このガリラヤ湖では突風が起こり、嵐になることは有名なことでした。ガリラヤ湖は海面よりも180メートルも低くに位置しており、周りは山がいくつもそびえ立っていたのです。このような地形から、山おろしの冷たい風邪が運ばれ、23節にあるように、突風が湖に吹き降ろしてくる地形であったのです。そのような意味で、この船が突風に会うこと、嵐になることは、ある程度予測できたことでした。そして、実際に嵐が起こったのでした。ただ、それでもイエス様は眠っておられたのです。それでもイエス様は安心され平安の中におられたのです。
このイエス様の持たれている平安。それは神様に繋がる者としての姿として見ることが出来るのです。この姿は、神様の愛に完全につながっている者、神の御子としてのイエス様、そして神としてのイエス様の姿を見ることができるのです。そして、このイエス様の神としての姿、神性を表す出来事が24節で起こされます。嵐の中、イエス様の弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言って、イエス様を起こしました。その中で、イエス様はその風と荒波をお叱りになり、嵐を静め、凪とされたのです。この出来事は、そのようにすることができなかった弟子たちの信仰、そしてそのようにできたイエス様の完全な信仰の違いを、見るよりも、イエス様の神としての姿を見たいと思います。
イエスは、神であり、人である方なのです。キリスト教がキリスト教でなくなる時、いわゆる異端といったものへとなってしまう一つの問題として、このイエス・キリスト、救い主を、神ではないとすること、または人間ではないとすることにあります。人間的に考えて、100%神様で100%人間であるということは200%になってしまうので、到底理解できないことなのです。どうにか人間的に頭で理解をしようとすると、イエス様は神様であって人間ではない、または人間であって、神様ではない・・・どこかでそのような考えに陥ってしまうのです。今日の箇所は、そのような私たち人間に、イエス様は100%神様であり、100%人間であるということを教えます。人間として、生きて、疲れ、眠られるような方であり、それでいて変わることのない平安、愛を持っておられる方、イエス・キリストが、私たちと共にいて、私たちの苦しみを共に担っていてくださるのです。
3: 二つの嵐の形
今日の箇所では安心して眠られているイエス様、そして弟子たちが乗る舟が嵐に襲われるのです。私たちもまた、人生において、様々な嵐に出会います。今日は、この人生の嵐を二つの嵐として見ていきたいと思います。
一つには、私たちの人生を大きく変えるような嵐があります。25日には、A姉が主の御許に召されました。入院され、あまり良くないとも聞いていましたし、LINEでもお話をしていましたので、なかなか回復が難しいと感じている中で、ある程度、覚悟はしていた事でした。ただ、どれほど心の準備をし、頭で理解ができたとしても、死、別れ、その痛みは嵐として、私たちの心を襲います。一つの大きな嵐。それは、死や病、挫折、裏切りといった大きな悲しみや嘆きといったものです。皆さんはこのような大きな絶望に出会ったことはあるでしょうか。
私の友人の牧師の話となりますが、その人は、父親が牧師であったため、小さい頃から、理由もよくわからず、教会に行き、礼拝に出ていたそうです。ただ反抗期になり、教会にいること、神様を信じていることができなくなった時があり、高校生の頃には、親からも離れ、家にも帰らず、学校にも行かず、毎日フラフラとしていたそうです。そんなある時、大きな事故に巻き込まれるということがあり、事故後、気づいた時は、ベッドの上で、もはや足が動くようにはならないと言われたそうです。まさに絶望に堕ちていったそうです。ただ、そんな中で、牧師である父親が、無言で置いていった聖書を見る日が続いたそうでした。そして、その聖書の言葉を、自分に向けられた御言葉として受け取っていくようになり、もう一度神様の救いを受け取っていくことができるようになったそうです。大きな嘆き、大きな嵐に襲われるとき、人間は確かに生きる勇気も失い、生きる希望も失っていきます。ただ、そのような時にこそ、イエス様の本当の意味での救い「主が共にいてくださる」ということに出会うことができることもあるのです。
それこそ、今日の箇所で、嵐に会う弟子たちがイエス様に助けを求め、その救いの御業を知ることも、そのような姿、自分の無力さを知り、真剣にキリストに救いを求める姿として見ることができるのです。
それに対して、もう一つの形の人生の嵐があるとも思うのです。それは少しずつ、少しずつ飲み込まれていく嵐です。言葉にするなら、「誘惑」という嵐と言えるでしょう。ここでは、湖の上で、水をかぶり、危なくなったとありますが、当時の大きな水の動きとは、悪霊による働きともされていました。悪霊が船を襲ってきた。それは、ルカでいうと4章に、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けたことが記されていますが、まさにそのような誘惑という嵐としても見ることができるのです。私たち人間にとっては、この悪魔の誘惑という嵐、私たちがあまり気がつかないような嵐、嵐と思っていないような誘惑という嵐はとても危険なものとなるでしょう。
現在は、日本では物価が高騰し、じわじわと、私たちの生活を苦しめています。少しずつ、私たちが生きている安定、安全が崩され、不安、危険な状態にされているのです。多くの人々が、これからの未来に不安を抱いています。どのように生きていこうかと考えたときに、その道が見えないのです。ただ、急な出来事ではないため、少しずつ、少しずつ心が疲れている。それにも関わらず、その疲れに自分自身が気がつかない。そのような中に置かれているのです。皆さんは今、自分が嵐に囲まれていると思っているでしょうか。本当はとても危険な場所に置かれていて、そのような嵐に立ち向かって生きているため、とても自分が疲れていると、思っているでしょうか。
イエス様は悪魔から、石をパンに変えること、世界の権力が与えられること、そして飛び降りても守られるのではないかということを言われ、誘惑されました。この悪魔の誘惑は、食べること、権力、そして安全が守られるというように誘惑しているのです。イエス様はこの誘惑に打ち勝たれたのです。私たちもまた、このような嵐。いつの間にかの誘惑によって、安定が崩され、そこに不安を抱いているということ、その中で、人間の作り出す「富」や「権威」といったものにより頼んでいく者とされていくことに気を付ける必要があるでしょう。
二つの形の嵐を挙げましたが、私たちがこの世に生きている限り、そのような様々な形をもって嵐に襲われるのです。そしてこの嵐によって、私たちは、神様を忘れ、神様から離れて行くように誘惑されているのです。
4: 嵐の中でも沈まない舟
今日の箇所において、舟が嵐に襲われる中、イエス様がこの嵐を静められます。この舟は沈むことはなかったのです。ここにイエス様の救いを見るのです。ヨハネによる福音書16:33で、イエス様は、このように言われています。【「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」】(ヨハネ16:33)
イエス・キリストは世の苦難、世の嵐に勝たれたのです。どれほどの危険であっても、それが死であったとしても、イエス・キリストはその死を越えて、私たちを愛して、私たちに新しい祈りの希望を与えてくださるのです。このイエス・キリストが共にいてくださる舟は、私たち自身であり、またその共同体である教会でもあります。この舟は決して沈むことはない。決して絶望に飲み込まれてしまうということはない希望の舟です。イエス様は25節において、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。ここで言うところの「信仰」とは、イエス様のように嵐を静めることができるようになることでも、不安を持たない者となることでもありません。むしろどれほど不安を持ち、嘆き、苦しんでいたとしても、そこにイエス様が来てくださっているということを覚えていくこと。自分の弱さを知り、「イエス様、助けてください」と救いを求めること、これが信仰です。
私たちは、嵐の中で、時に苦しみ、時に誘惑に陥ることもあります。そのような中で、もう一度「わたしの主はイエス・キリストです。私はイエスを主、自らの救い主です」と告白していきたいと思います。ここに信仰があるのです。イエス・キリストは神でありながら、人間として、この世に来られ、十字架で死に、復活という新しい命の創造を受け取った方です。このイエス・キリストを通して、神様が、私たちに愛を示し、「私があなたを愛している」と語り掛けてくださっているのです。その言葉を受け取って、信じていきたいと思います。イエス様は、私たちと共にいて、どれほどの嵐が来ようとも、決して沈むことのない、命を与えて下さっているのです。私たちは、このイエス・キリストが共に生きて、そしていつも希望を与えて下さっていることを信じて、歩んでいきたいと思います。(笠井元)