1: 人間としてのイエス様
イエス様は船の中眠られていました。イエス様はなぜ眠られていたのでしょうか。様々な解釈ありますが、その一つとして、イエス様は疲れられていたのだろうという考えがあります。神の子とされ、悪魔の誘惑にも打ち勝たれ、病をいやし、神様の恵みを皆さんに宣べ伝える中、体力的にも、精神的にも疲れられていたのではないかということです。イエス様の疲れを見る時、人間としてのイエス様の姿を見ることができるのです。そして、人間としてのイエス様だからこそ、私たち人間の心の隅から隅まで理解してくださるのです。
2 神としてのイエス様
船が突風に会い、嵐が起こってもイエス様は眠っておられたのです。イエス様の持たれている平安は神様に繋がる者としての姿として見ることが出来るのです。神様の愛に完全に繋がっている者、神の御子としてのイエス様、そして神としてのイエス様の姿を見ることができるのです。イエス様の神としての姿、神性を表す出来事が24節で起こされます。イエス様はその風と荒波をお叱りになり、嵐を静め凪となされたのです。イエス様は神であり、人である方なのです。
3: 二つの嵐の形
私たちも人生において様々な嵐に出会います。一つは私たちの人生を大きく変えるような嵐があります。大きな嵐とは、死や病、挫折、裏切りといった大きな悲しみや嘆きといったものです。嵐に襲われるとき、人間は確かに生きる勇気、希望を失います。
もう一つの形の人生の嵐があります。それは少しずつ飲み込まれていく嵐です。「誘惑」とも言えるでしょう。悪霊が船を襲ってきた。悪魔の誘惑という嵐は、私たちが気がつかないような嵐となります。私たちがこの世に生きている限り様々な形をもって嵐に襲われます。そして神様から離れて行くように誘惑されているのです。
4: 嵐の中でも沈まない舟
舟が嵐に襲われる中イエス様が嵐を静められます。ここにイエス様の救いを見るのです。イエス・キリストは世の苦難、世の嵐に勝たれたのです。イエス・キリストが共にいてくださる舟は、私たち自身であり、その共同体である教会です。この舟は決して沈むことはなく、決して絶望に飲み込まれることはないのです。嵐の中で、時に苦しみ、時に誘惑に陥ることもあります。そのような中で、もう一度「私はイエスを主、自らの救い主です」と告白していくこと、ここに信仰があるのです。私たちは、ただこの救いの希望を頂いていきたいと思います。(笠井元)