1: 悪霊
イエス様はガリラヤ湖を渡り、ゲラサ人の地方に着きました。するとそのイエス様のもとに、一人の人がやってきました。この人は長い間、悪霊に取りつかれていたのです。悪霊についての理解は様々ですが、一つの特徴として、悪霊とは、人間の考えを超えた存在であり、人間、または社会に対して良くないことを引き起こす存在として考えられていたのです。当時、人々のイメージとして、悪霊は人間の住まない荒れ野や水辺、または地下に住んでいて、人間の中に入り、身体的、精神的障害を引き起こすような存在として考えられていました。そして、人間の力ではどうすることもできない病気や状態を「悪霊に取りつかれた」ものと考えたのです。自分たちの理解を超え、想像を超えたことが起きた時、そしてそれが自分たち、社会にとって良くないことであれば、悪霊の仕業と考えたのです。
また、もう一つの特徴として、今日の箇所から見てみると、悪霊は、イエス様が誰かを知っていたということがあります。悪霊はイエス様を「いと高き神の子イエス」と叫んだのでした。このことは、神様を知ること、イエス様を理解することが、直接そのまま救いとなるのではないということを教えます。悪霊はイエス様を知っていた。しかし、その神の子イエスに出会ったことを喜び、従ったのではなく、むしろ「かまわないでくれ」と言ったのでした。これが悪霊という存在です。
このことは、このあとのこのゲラサの町の人々の姿にも見ることが出来ます。ゲラサの人々はイエス様を歓迎して迎え入れるのではなく、悪霊が出ていく際に、多くの豚が死んでしまったことから、イエス様に「出て行って欲しい」と願ったのです。人々は、悪霊から解放してくださる、救いを与える人として、イエス様を見るのではなく、悪霊を追い出すことで、豚を死なせ、経済的に問題を起こした人として、イエス様を見たのでした。
2: イエスという存在
イエス様は悪霊に取りつかれた人を、その悪霊から解放したのです。イエス様は二つのことをなされました。一つには、悪霊に、名前を尋ねられたということ、もう一つは、悪霊自らが豚の中に入ることを許してほしいと願ったので、その願いを許されたという、この二つのことをなされたのです。イエス様は、「名は何というか」と尋ねました。それに対して悪霊は「レギオン」と答えたのです。ここでは【たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである】(ルカ8:30)とありますが、「レギオン」と言ったのは、「たくさん」そして強大な力を意味し、それほどにこの悪霊に取りつかれた人がひどい状態であったことを意味するのです。しかし、その強大な力を持つ悪霊が、イエス様を前にして、自ら豚の中に入ることを許してほしいと願いだしたのです。イエス様がなされたことは、何か呪文を唱えたり、何かをして悪霊払いをしたのではなく、ただただ、悪霊の「したいこと」を許可しただけなのです。イエス様に出会うとき、悪霊は叫び、自ら自滅していった。これがイエス様の存在です。何かをしなくても、ただ存在することが、悪霊を人間から引き離すのです。このイエス・キリストを神様は、私たちのところに送ってくださったのです。
3: イエス・キリストは誰も見捨てない
しかし、このイエス様による悪霊の救いの出来事は、ゲラサの人々には受け入れられませんでした。人々は、悪霊が出ていく際に、多くの豚が死んでしまったことから、イエス様に「出て行って欲しい」と願ったのです。イエス様は、悪霊を追い出した人である、と同時に、豚を死なせ、経済的に問題を起こした人なのです。神学者のパウロ・ティリッヒは「あなたの関心のあるところに信仰がある」と言いました。このときゲラサの人々の一番の関心は、悪霊からの解放ではなく、豚の死による経済的損失だったのです。人々は、一人の人間の犠牲の上に立つ経済的利益を求めた。つまり、ある程度の人々の犠牲があろうとも、自分たちが守られること、社会が守られることを選んでいたということです。
私たちの生きる、この社会は、自分を中心に生きることを求め、他者のために生きることなどはまったく求めていない。これが私たちの生きる社会なのです。この自己中心の社会が生み出すのは、切り捨てる者と切り捨てられる者、弱者と強者、勝ち組と負け組です。そして、私たちは誰もが、切り捨てられる可能性を持っている。そしてそのことを誰もが知っているのです。
先日、福岡市の高校生がいじめによって死を選び、自ら命を絶ったということがニュースとなっていました。しかし、その高校の校長先生は、そのようなことはなかったとし、重大問題ともしなかったそうです。いじめの大きな問題は、もちろん、いじめる人にもありますが、その周りで、見て見ぬふりをする人が沢山いるということも問題なのでしょう。自分には関係ない。自分は何も知らないとする。自分を守るため、自分が傷つかないためには、だれかが傷ついているのを知っていても、それを知らないとするのです。しかし、イエス様は、そのような者と共に生きられるのです。そしてそれは、この社会、人間の価値観を崩される行為となるのです。本来誰もが見なかったこと、自分には関係ないとするはずのところを、イエス様は決してそうはされない。誰もが見捨てる者を、決して見捨てられない。自分が一緒に生きる。孤独な人を愛し、一人ぼっちの人と共に生きる道を選ばれるのです。
そして、だからこそ、この世はイエス・キリストを十字架につけた。このゲラサの地でも、人々はイエス・キリストを豚を殺す、経済的損失を与える者として、追い出したのでした。これこそ、私たちが生きる、人間の求める社会の象徴。イエス・キリストの十字架の現す人間の醜さなのです。
4: 自分の家に帰りなさい
この時、ただ一人、イエス様の恵みを受け取った人がいました。それは、悪霊に取りつかれていながらも、その悪霊から解放された者。その人は、イエス・キリストの存在に救いを見たのです。 私たちは今、どの立場にいるのでしょうか。社会を守るため、少数者は切り捨てることも仕方がないと考える多数者か、それとも、切り捨てられる少数者か。もし、切り捨てるほうにいるならば、それはどれほど神を頭で理解しようとしても、生まれてくるのは、愛の反対のものでしかないのです。それに対して、自分が捨てられる者、一人、孤独に生きていることに気づかされた者であるならば、どれほど理解ができていなくても、頭ではわからなくても、自分の隣にイエス様が来て下さった事、イエス様が共にいてくださる、その神様の愛を感じることができるのでしょう。
皆さんはどちらに立っておられるでしょうか。ぜひ、今、この世、この社会の価値観から抜け出し、イエス・キリストに出会ってほしいと願います。
そしてこの者がイエス様と一緒に生きていきたいと願うと、イエス様は、「自分の家に帰りなさい」(8:28)と言われました。イエス様は、自らに出会い、変えられた者に、「ついてきなさい」ではなく「自分の家に帰りなさい」と言われたのです。このことは、イエス様の与えて下さっている救いとはどのようなものなのかを考えさせます。キリストに出会った者。その者は、どこにあってももはやキリストの愛を注いでいただいている、キリストが共にいてくださる恵みを受け取っているのです。だからこそ、このキリストという土台に立ち、歩き出すのです。新しい出発です。これまで自分のため、自分が守られるために生きてきたところから、他者と共に喜び、そして悲しみ、苦しむ道も選び取っていく。それがキリストに出会った者なのです。私たちは、変えられましょう。私たちも、イエス・キリストが共に生きていてくださることを受け取って。この社会に神様の愛を広げていきたいと思います。(笠井元)