1: 悪霊
イエス様はガリラヤ湖を渡り、ゲラサ人の地方に着きました。そのイエス様のもとに、一人の人がやってきました。この人は長い間、悪霊に取りつかれていたのです。悪霊についての理解は様々ですが、一つの特徴として、悪霊とは人間の考えを超えた存在であり、人間または社会に対して良くないことを引き起こす存在として考えられていたのです。もう一つの特徴として、悪霊はイエス様が誰かを知っていた。イエス様を「いと高き神の子イエス」と叫んだのでした。しかし、神の子イエスに出会ったことを喜び、従ったのではなく、むしろ「かまわないでくれ」と言ったのでした。
2: イエスという存在
イエス様は悪霊に取りつかれた人を悪霊から解放したのです。イエス様は二つのことをなされました。一つには名前を尋ねられたこと、もう一つは悪霊自らが豚の中に入ることを許してほしいと願ったので、その願いを許されたのです。イエス様がなされたことは、ただ悪霊の「したいこと」を許可しただけなのです。イエス様に出会うとき、悪霊は叫び自ら自滅していった。これがイエス様の存在です。
3: イエス・キリストは誰も見捨てない
ゲラサの人々は、悪霊が出ていく際に多くの豚が死んでしまったことから、イエス様に「出て行って欲しい」と願ったのです。この時ゲラサの人々の一番の関心は、悪霊からの解放ではなく、豚の死による経済的損失だったのです。
私たちの生きる社会は、自分中心に生きることを求め、他者のために生きることは求めません。これが私たちの生きる社会です。自己中心の社会が生み出すのは、切り捨てる者と切り捨てられる者、弱者と強者、勝ち組と負け組です。イエス様は、本来誰もが見捨てる者を決して見捨てられません。孤独な人を愛し、一人ぼっちの人と共に生きる道を選ばれるのです。
そして、だからこそこの世はイエス・キリストを十字架につけたのです。十字架は人間の求める社会の象徴、人間の醜さなのです。
4: 自分の家に帰りなさい
ただ一人、イエス様の恵みを受け取った人がいました。それは悪霊から解放された者です。この者がイエス様と一緒に生きていきたいと願うと、イエス様は、「自分の家に帰りなさい」(8:28)と言われました。イエス様は「ついてきなさい」ではなく「自分の家に帰りなさい」と言われたのです。キリストに出会った者は、もはやどこにあってもキリストの愛をいただいているのです。自分のために生きるところから、他者と共に喜び、悲しみ、苦しむ道を選び取っていく。それがキリストに出会った者なのです。私たちもイエス・キリストが共に生きていてくださることを受け取って、この社会に神様の愛を広げていきたいと思います。 (笠井元)