1: 14年前に起こった事
パウロは、【キリストに結ばれていた一人の人を知っています】(12:2)として、第三者がいて、その者が天に挙げられたように語ります。ただこれはパウロ自身の事であり、パウロはここで自分が天に挙げられた出来事を語っている(誇っている)のです。
パウロは、この経験をはっきりと【十四年前】(12:2)とし、特別な経験として語ります。つまり人生の中で何度も起こっていたことではないのです。パウロは、自分自身の回心の出来事をはじめ、聖霊やイエスの霊の導き(使徒言行録16:6-7等)、神の啓示(ガラテヤ2:2)といった神様の導きを受けて異邦人伝道を行ってきたのです。そのパウロにとっても、この出来事は特別な出来事だったのです。
この時、実際に何が起こっていたのかはわかりません。ただ今日のパウロの言葉から読み取るならば、これはパウロが自ら何かをすることで起こった出来事ではないのです。この出来事は、あくまでもパウロが、神様から引き上げられた出来事であり、神様が言葉を発してくださった出来事、神様が主体性を持って起こしてくださった出来事なのです。
ユダヤ教において、天は複数あると考えられており、多くの場合は七つとされていました。ただ、時に、天は三つとされているときもあり、今日の箇所では、天は三つとされ、パウロはその最も高いところに挙げられたのです。
2: パウロの心の揺れ動き
この記事はパウロの経験ではなく、別の人の経験について語っているように見えますが、実際パウロはそのように読めるように記したのでしょう。なぜパウロはあたかも別の人に起こったかのように書いたのか。パウロには自分の誇りとして読み取られたくないという思いがあったと同時に、この素晴らしい出来事を自分の「誇り」として言わずにはいられなかった。そのような心の揺れ動きを見ることができるのです。
「誇らずにはいられません」(1)、「誇っても無益ですが」(1)、「このような人のことをわたしは誇りましょう」(5)、「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう」(6)、「だが誇るまい」(6)このような言葉を見ると、パウロの心の中でも思いが二転三転しているように見えるのです。このパウロの心を見る時、人間として、信仰者として、「こんなに素晴らしいことがあったんだ」と喜びを共有しつつも「こうすることが素晴らしい、しなければ・・・」と押し付けてしまうことにならないように、自分に起こった神様の恵みを語ることの難しさを教えられるのです。【喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。】(ローマ12:15)自分の喜びを共に喜んでもらうことは難しいことです。
3: 一つのとげ が与えられる
パウロのこのような心の揺れ動きは「一つのとげ」が与えられることによって、一つの決着がついたのです。「一つのとげ」がどのようなものであったのか、コリントの教会の人々は理解していたと思われます。ただ、現在の私たちが完全にわかることは難しいでしょう。
「とげ」というのですから、痛みの伴うことであったのでしょう。これまでは、てんかん、片頭痛、言語障害、目の痛みといった身体的な病であったり、または精神的な病としてうつ病などであったのではないかとも考えられてきました。
パウロの言葉からわかることは、これは先天的なものではなく、ある時に与えられた出来事であり、一回性のものではなく慢性的に起こっていたことだとわかるのです。またパウロは、多くの困難を耐え、伝道旅行を続けることが出来たことから、困難に耐えることができるものであったことということです。また【サタンから送られた使い】(12:7)とあるように、これはサタンからのとげ、つまり「福音宣教の業を邪魔するもの」であったとも考えられるのです。
パウロは「一つのとげ」をサタンの働きの一つとして理解していました。しかし、パウロの「取り除いてください」という祈りは聞かれませんでした。パウロはとげは取り除かれませんでしたが、そのことから、神様の「弱さの中で働かれる力」を教えられ、「弱さを喜ぶ」という思いを与えられたのです。
4: 弱さの中で発揮される神の力
パウロに、主からの言葉がありました。【わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ】(12:9)
現代聖書注解では、このように教えています。「大人が子どもに何かを教えようとしても、子どもは頑固に拒むときがある。そのときは子どもを助けることはできない。しかし、一旦子どもが自分の「弱さ」を認めると、「力」を用いて手助けすることが出来るようになる。同じように、神さまも、私たちが弱さを認めるまでは、力を分け与えることができない。」(E.ベスト著,山田耕太訳『現代聖書注解:コリントの信徒への手紙2』p.195)
パウロは、特別な出来事を与えられ、自分を誇るような気持ちさえも持っていました。しかし、一つのとげが与えられることから、そのような自分が与えられた出来事から高慢にならないために(7)一つのとげが与えられ、むしろ、弱さの中にこそ、神の力、十字架の恵みがあるということを知ったのでした。パウロはこのことを理解したときに、自分が14年前に受けた出来事を越える御業が、弱さの中に起こされているということを理解したのです。私たちは、誰もが弱さを持ちます。神様に頼る必要があることを覚えていきたいと思います。(笠井元)