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2023.11.19 「痛みから目をそらさない~ともに生きるために」(全文) ヨハネによる福音書5:1-9

1,「わからない」への躓き

みなさん、おはようございます。先週は幼児祝福礼拝を共に捧げ、東福岡幼稚園に通っている子どもたちに神様の祝福があるようにと祈る時を持つことができましたこと、本当に感謝しております。子どもたちの賛美を聞き、聖句を唱える時の姿を見ながら、なんて素敵なんだろうと感動を覚えました。私は仕事の関係で普段中高生や大学生と関わる時間が長くて、時々幼稚園や小学校に行くと、人って、もともとこんなに純粋で真っ直ぐな存在なんだと気づかされます。この純粋さはいつまで続くだろうと思う一方、目の前の子は将来どんな大人になるだろうと、思わず子どもたちの成長をこの目で確認したくなります。今日は成長感謝礼拝を捧げる日です。人は「自分らしく成長する」、これはすべての人が生まれた瞬間から与えられている権利です。しかし私たちは自分の成長過程を振り返ったときに、発達や成長というものが、楽しさばかりではなく、痛みや辛さを伴うものであることも認めざるを得ないでしょう。

さて、教会の中高生の子どもたちに聞きます。皆さんは将来何になりたいでしょうか。どんな仕事をしたいのでしょうか。今は将来のビジョン、計画が具体的に決まっていなくても、日々目の前の小さな目標に向けて頑張ること、毎日の迷いや悩み、痛みと向き合うことが、絶対に将来自分のためになります。挫折や失敗を味わうことがあるかもしれません。しかし、全てを益としてくださる神様が皆さんと共にいることだけを忘れないでください。

私は大学2年生のとき、将来は神様に仕える仕事がしたいと思い、神学部に入学しました。学びのスタートラインに立った時に、二つの「分かりたい」を強く持っていたのを覚えています。一つは、聖書が分かりたい。もう一つは人の気持ちが分かりたい、でした。結局どれも躓いてしまいましたが、今日は二つ目の躓きを話したいと思います。

神学生の頃、教会やある台湾料理のレストランで奉仕することになりました。神学生であることを知られると、聖書に関する質問はもちろん、個人の悩み相談を受けるなど、牧会カウンセリングのような働きも求められました。誰かの悩みの話を聞いたりすると、相手の心に寄り添いたいあまり、自然と「わかるよ」と口にしたくなり、時にはわからなくも「わかるよ」と嘘をつくまで相手を慰めようと、相手を苦しみから解放しようとする自分がいました。これは、相手に寄り添うための善意だと思っていましたが、後になって考えてみると、自分は偽善者ではないかと自分の言葉を疑うようになりました。相手に寄り添いたい気持ちは確かなものでした。しかしうそをつくまで、寄り添おうとした自分は、本当は「わからないこと」に耐えられなかったのではないかと自問自答しました。わかろうとせず、わかると言ってしまう自分。相手の傷口に「わかるよ」という薬を塗れば、完全に回復すると勘違いしてしまう自分がいたのです。相手の気持ちを完全にわかるなんて、本当はあり得ないことだと思います。だからこそ、わからないことを受け止めて、次に何をするかが問われるのです。私事で恐縮ですが、私の家族の物語を少しお話させてください。

 

2,家族の物語

私は二人の祖母がいます。小さい頃、母方の祖母はよく病気したため、長女である母はうちでずっと面倒を見ていました。父方の祖母はうちの近くに住んでいて、元気に暮らしていましたが、ある日の家族会議の中で、お母さん二人は夫を亡くし、現在一人暮らしをしている。一人で寂しい思いをするより、二人で共同生活をしたらどうかと提案した兄弟がいました。父方の祖母はすぐそれに賛同し、一緒に暮らそうと母方の祖母に声かけました。こうして、二人のおばあちゃんの共同生活が始まったのです。私は休みで学校から帰ってくるたびに二人のところに泊まりに行きます。今も覚えているのは、夜中の3時か4時ぐらい、二人の喋り声、口論に何度も起こされたことです。眠気で意識が飛んだりもしましたが、どうも二人は政治についての見方が異なっていたため、ぶつかってしまったようだ。二人はそれぞれ異なる性格、人生経験を持っていたので、この二人は一緒に生活していいんだろうかと小さいながらも心配していました。二人は同じ信仰を持つクリスチャンですが、一人は物静かで、もう一人はお喋りが大好きな人です。○○さんのお家の息子は今度結婚するんです。○○ちゃんは、今年の春小学校に入学した、隣の奥さんが夫と喧嘩して家出したなど…家族の情報屋と言われるほど、母方の祖母は人付き合いがうまい人でした。そうなった理由は、家族が迫害された歴史があったからと思います。

中国が建国する前から、中国共産党が中国農村部から革命運動をスタートしました。地主支配に苦しむ農民たちを解放するために、土地改革が推し進められ、農民運動が行われました。政府は地主の土地や財産を貧しい農民に分け与え、それに反抗する地主を殺害し、土地を持つ裕福な人を迫害してしまいました。母方の祖母は裕福な家庭の娘でしたので、小さい頃、武装兵たちが夜中家に侵入し、棒と鞭で父親を激しく殴り続けたと、祖母からよく聞きました。祖母が生き残るために、密に家から逃げ出し、夜の山を走って他の村の住民たちの家に避難して行きます。そんな恐怖と不安の中で育った祖母は、夜寝ていても、周りの人の会話がよく聞こえると言うのです。他方、父方の祖母は貧乏な家の娘で、食べ物がない生活を送り続けました。国家や党は、農村での支持を得たいという思惑で始めた革命、強制的な政策が、どんどん国民を分断させていきます。土地を持つ人たちは、財産や家、家族や自分の命を奪われ、貧しい農民たちは、生活が改善されないまま苦しい生活を強いられていました。そのような大変な思いをされた二人は共同生活の中で、時にぶつかり合いながらも、互いの話を聞き、互いの痛みに寄り添いました。ある日の朝4時、また祖母たちの泣き声に起こされました。「こんな私を受け入れて、一緒に生活してくれてありがとう」と母方の祖母が泣きながら話した言葉、今も忘れません。7年前に父方の祖母が亡くなった時、母方の祖母は涙を浮かべながら私に言いました。「あなたのおばあちゃんの人生は苦労の連続です。よくここまで生きてこれたね。」

 

3,痛みに共感

今、国際社会をはじめ、世界の人はさまざまな対立や分断を抱えています。政治政策や社会制度によって分断され、宗教やイデオロギー、育った環境や学力、経済格差や家庭環境の違いによって分断され、それぞれ道が分かれていく現実を目の当たりにします。人と人の間にある対立の溝は、依然と広く深いものです。どうしたら良いでしょうか。

先日は昨年1 月公開のドイツの映画『クレッシェンド・音楽の架け橋』を観ました。この映画は、実在する楽団をモデルに描かれたものです。世界的に有名な指揮者のエドゥアルト・スポルクが、長きにわたり紛争と対立が続くイスラエルとパレスチナから若者たちを集めてオーケストラを編成し、平和を祈念するコンサートを開くというプロジェクトを引き受けるシーンから物語が始まります。民族間の対立、家族の反対など、プロジェ クトの実現には紆余曲折が予想されるものの、若者たちは音楽家になるチャンスをつかむため、対立する民族同士の混合チームの一員となりました。

両者の溝は簡単に埋まるものでしょうか。彼らの最初の演奏を聞いた指揮者が次のように指摘 します。「全くかみ合っていない。互いの音を聴いてないんだ。目も合わせない。心を伝えていない」。その後、合宿練習に連れ出されても、若者たちは結束するどころか、「テロリストだ」「人殺しだ」と互いをののしり合い、激しくぶつかり合いました。

この映画を観て一番印象に残ったシーンはその後起こったことです。アラブ人とユダヤ人の若者たちがぶつかった後、泣きながら、「私のおじいちゃんが…」「僕のおばあちゃんは…」と、紛争で家族の身に起きたことを静かに語り始めました。若者たちは家族の物語として戦争の痛みを受け継いでいること、今もなお続く紛争に怒りと無力感を抱えていることが語り合いのなかで明らかになってきました。互いの音に耳を傾け、漸く心の壁を溶かしていった若者たちでした。残念ながら、彼らが待ちに待ったコンサートは、ある事件によって中止になってしまいました。

和解と平和の理想論は、厳しい現実で打ち砕かれたかのような結末を迎えました。しかし帰国の空港の待合室で、青年たちがお互いの瞳を見つめ合って演奏するラストシーンは、平和の実現を目指そうとするこれまでの試みは決して無意味なものではないことを強く訴えているようにも見えました。若者たちはなぜ、最後に互いに向き合い、音を聴き、心を通わせることができたのでしょうか。それは、人の命が脆く弱く、傷つきやすいがゆえに、誰でも痛みを持つがゆえに、そこに「共感」が働いたからだと思います。相手の傷や痛みときちんと向き合い、受け止めなければ、正しさで裁き合う世界、憎しみ合う人々の傷が癒されることはないでしょう。

 

4,イエスの癒し

実は、イエスの癒しの働きも常に、相手の傷と痛みに直接に触れることから始まります。ベトザタの池、三十八年も病気で苦しんでいる人がいました。イエスは直接彼の頭に手を置いて病気を癒したわけではありませんが、彼に言葉をかけたのです。「良くなりたいか」と。その場所に、彼以外にも病を抱えた人がいました。天使が池に降りて池の水を動かす時に中に入ると、最初に池に入った者が癒されるということを信じた人々はみんなそこに集まり、絶好のチャンスを掴もうとしました。イエスの問いかけに対して彼は答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」絶望的な状況が38 年も続いたのです。彼は、チャンスがつかめない自分のために言い訳をしたのでしょうか。

そうではなく、彼はずっと心の奥にしまってある、言葉にならない痛み、絶望をはじめて誰かに伝えたのでしょう。自分の力なさ、誰も助けてくれない周りの人の冷たさを言葉にし、38 年間抱えてきた痛みは、ただの体の痛みではなく、心の痛みであったことを告白したのです。イエスの良くなりたいかは、そのような彼の内面の声を引き出すためのもの、38 年間抱えてきた理不尽な痛みに耳を傾け、受け止めるためのものではないでしょうか。彼の心の傷は簡単に癒えるものではないのかもしれません。しかし、誰かが彼の苦しみ、嘆き、涙を受け止めなければ、本当の癒しを得られないでしょう。赤ちゃんは体の緊張を取り除くためにすすり泣きをします。その場合の涙は、癒しとなる涙と呼ばれます。同じように、痛みを抱えるがゆえに、嘆くことは癒しにつながります。イエスは真の癒しを望み、良くなりたくても願いが叶わない辛い現実から目をそらさなかった。苦難を生きざるを得ない人の痛みや辛さからも目をそらすことなく、その人とともに向き合い、癒そうとされたのです。私たちは異なる経験をされた相手、価値観や考え方が全く異なる相手に、「全部わかってるよ」と声かけることができず、互いの気持ちも完全に理解できないのかもしれません。

しかし、できることがあるはずです。それは、傷ついた自分と相手、痛みを抱える世界に耳を傾け、共に嘆き、共に祈ることです。「あなたは、私たちは、よくなりたいでしょうか」。(劉雯竹)