1: 誇ることは愚かなこと
パウロは「わたしは愚か者になってしまいました。」(12:11)と言いました。これは10章から始まっているパウロの「誇り」についての思いです。パウロは、コリントの教会の人々から「真の使徒」と思われず「偽使徒」と思われるようになっていました。パウロは「愚かなこと」とわかりながらも、自分を批判する者たちが誇ることに対抗して、自分も誇るような言葉を語ってきたのです。ただ、その「誇り」の内容は、Ⅱコリント12:9にあるように「キリストによる弱さを誇る」、または「主を誇る」(11:17)として語ってきたのでした。
人間が何かを誇るとき、それは自分の自慢話になるものです。パウロの立場で言えば、何人の人に伝道を伝えたとか、回心させたとか、または何個の教会を作ったなど、・・・パウロの伝道の働きにはいくらでも誇りとすることがあったでしょう。しかし、パウロはそのようなことを誇りとはしませんでした。パウロは「弱さ」を誇りとしたのです。
パウロは、自分の正しさを理解してもらい、自分が正しいキリストの使徒、奉仕者であることを受け入れてもらうために語ってきたのです。
このような「誇り」について語る自分自身を、パウロは「愚か者」とし、自分は「愚か者になってしまいました」(12:11)と語ったのです。それはむしろ、自分を誇ることがどれだけ愚かなのかを示しているのでもあり、そのようなことを堂々としているパウロを批判する者たちの愚かさを示している言葉なのです。
2: コリントの教会に負担をかけないこと パウロの想い
パウロが、使徒として認められない理由はいくつかありました。その一番の理由とされたのは、パウロがコリントの教会から報酬を受けていなかったこととされます。パウロはしるしや不思議な業、奇跡を行ってきた。しかしパウロはコリントの教会から報酬を受け取らなかった。そのためにパウロは偽使徒だと言われたのです。
【12:14-15】パウロは、自分はコリントの教会の親のような立場であり、コリントの教会から献金を受け取ることが目的ではなく、むしろ自分のすべてを使い果たしてでも愛しているということを伝えたかったのです。これがパウロのコリントの教会に対する気持ちでした。パウロはコリントの教会、その教会に繋がる人々を心から愛していたのでしょう。
しかし、パウロの親が子を想うような、熱い想いはなかなかコリントの人々には伝わりませんでした。パウロは自分が愛すれば愛するほど、愛されなくなると嘆いているのです。ある意味これが人間の限界でもあるのかもしれません。人間の愛、その思いは、それほど上手に相手に伝わるものではないのでしょう。
パウロは16節では、負担をかけなかったのにも関わらず、「悪がしこく、あなたがたからだまし取った」とまで言われているのです。これは、エルサレム教会のための献金を集めたことからだとも言われています。
無報酬で働くことには危険性があるのです。パウロが報酬を受けないことは、逆にパウロの責任逃れのようにも見えてしまったのでしょう。人間の想いを相手に伝えること、またはきちんと相手の想いを受け取ることの難しさを教えられるのです。またお金の扱いについてはよく考えなければならないでしょう。
3: 悔い改めて生きる
20節では8つの罪として「争い」「妬み」「怒り」「党派心」「そしり」「陰口」「高慢」「騒動」と挙げられています。この8つの罪は個人の罪というよりは、誰かとの関係において起こることであり、コリントの教会という集団において分裂が起こっていることを指摘した言葉となります。
コリントの教会には確かに分裂の危機にありました。争い、妬みといった問題が多くあったのです。パウロは、そのようなコリントの教会に、Ⅰコリントの信徒への手紙では、何度も「一致」すること、愛し合うことを教えてきたのです。
パウロが一番に不安に思っていたことは、コリントの教会の人々がこれまでに行ってきた行為ではなく、そこから悔い改めていないのではないかということでした。私たちに求められていることは悔い改める道を歩き出すことなのです。右にそれ、左にそれていきながらも、それでも、私たちを愛してくださっている方「イエス・キリスト」の想いを受け取り、キリストに立ち帰ること、そこに、私たちの生きる意味があるのでしょう。
私たちは、お互いの想いをすべてを理解することはできませんし、それぞれの関係をいつも良い状態に整えておくことは難しいものです。そのような私たちを愛し、愛する者として整えてくださる神様の想いを覚えたいと思います。そして、神様に立ち帰っていきたいと思います。(笠井元)