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2023.11.26 「神から愛された「世」⁻バプテスト世界祈祷週間に当たってー」(全文) ヨハネによる福音書3:16-21

今日から次週12月3日まではバプテスト世界祈祷週間です。今年は教会カレンダーが少し特殊であり、キリスト・イエスの誕生日を待つ待降節入りとは一週間づれています。バプテスト世界祈祷週間と並んで、同じような世界のための祈りの伝統があります。まず、NCC/WCC(日本基督教協議会/世界キリスト教協議会)の「世界祈祷日」というのがあます。毎年3月の第一金曜日に行われます。私は関東で牧師をしていた際にこの「祈祷日」のための英語の手引書を日本語に翻訳する奉仕をしたことがあります。この「世界祈祷日」は1887年米国の女性たちが移民や社会的に抑圧されている人々のために、教派の壁を越えて祈ることを提案し、それ以来続けられています。もう一つの伝統は「BWA世界祈祷日」です。米国南部バプテストとその系列の教会だけではなく、いろいろなバプテスト団体を含んでいるものです。これは、1948年第二次世界大戦で荒れ果てたヨーロッパの女性バプテストたちが始めた祈りの運動で、現在も続いています。これは今年は終わりましたが、11月の第1日月曜日です。BWABaptist World Alliance) は全世界で5,100万人の教会員と1760,000の教会のネットワークです。5年に一度BWA世界大会が開かれます。そして、三番目は南部バプテスト系の教会が行っている「バプテスト世界祈祷週間」です。これは中国への宣教師であったロティ・ムーンのクリスマス献金から始まったことは皆さん良くご存知でしょう。このような3つの祈り会に共通しているのは「祈り」ということです。そして、女性たちが発起人になって粘り強く祈りと献金を推進していることです、女性たちの力と粘り強さです。そして3つ目の特徴は、「世界」という広がりです。「女性たち」という共通点も興味深いですが、それを展開するともう一つの説教になるので、今日は指摘しておくに留め、「世界」あるいは「世」について焦点を当ててみます。

 

1.     神の愛

  ヨハネによる福音書の316節は、福音の中の福音、良いニュースの中の良いニュースとして知られ、私たちの信仰の内容を見事に要約したものです。この個所は、神様が私たちを愛して下さったことを教えています。その愛の程度というか内容は「み子イエス・キリストを賜ったほどに愛して下さった」と言います。イエス・キリストの生涯は、神がそのひとり子を私たちに与え、そのひとり子を通してこの世の悩み、苦しみ、悲しみを味わい尽された出来事として告白されています。子が親より先に死ぬことより親不孝なことはないと言われますが、神の愛の深さは、父なる神がその独り子をこの世に、私たちに与えられたことによって、十字架の死に至るまでそうされたことによって明らかにされているのです。皆さん、可愛い我が子が自分より早く死ぬことを想像することができないでしょう。私たちは私たちの経験から神の愛を知るのではなく、神の愛から、愛すること、子であること、親であることとはどういうことかを学ぶのです。この個所については、2017年5月14日の礼拝で説教をしました。その時はほとんど「世」については触れなかったのでした。そこで今回は神の愛の対象である「この世」あるいは「世」について考えてみましょう。

 

2.     愛の対象:「世界」

 ヨハネは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言い、神の愛の対象は「世」であると言います。よりによって争いや不正が絶えないこの世を神は愛された、愛されている、これからも愛されるのでしょうか。わたしには躓きを覚えるような告白です。

そこで、まず、「世」「世界」に相当するギリシヤ語を考え、ヨハネによる福音書が「世」をどのように理解しているかを思い巡らしてみましょう。ギリシヤ語は「コスモス」(ho kosmos)です。この言葉は、古典ギリシヤ語では「秩序」あるいは「秩序ある世界」を意味しています。「コスムー」という動詞は「整理整頓する」という意味です。「整理整頓」が苦手な人もいるかと思いますが、ギリシヤ・ローマの政治・哲学・倫理思想ではこの世界は理性によって成立している「秩序ある世界」でした。ある意味では、それは理想の世界像かも知れません。ヘブライ語の聖書の理解からしても、「世」は神の被造物であり、しかも、神の言(ロゴス)によって成り立っているので、秩序ある、確かなものです。しかし、違うのはこの世は人間の悪によって歪められ本来の「秩序」が乱れて「「混沌」(カオス)でもあるという理解です。「世」にはこのような両面があり、そこから「救い」また「裁き」「滅び」を経ての「再創造」ということも考えられるわけです。

 ヨハネによる福音書では「世」(コスモス)は、大きく三つに分けて考えられていると思います。第一に、ヨハネ1:3には「万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と言われ、重ねて、1:10では「世は言によって成った。」と言われています。「世」とは全被造物の全体、すべてを合わせたものです。第二に、「世」とは、神から頑なに離れている被造物、それ自身悪の中にいて、悪に染まっている世界としてのコスモスです。ヨハネは特にそれを強調しています。先ほど引用したヨハネ1:10では「世は言によって成った。」で終わらず、「世は言を認めなかった。」と続けています。考え方においても行動においても神を拒否しているのが「世」(コスモス)なのです。第三のコスモスの意味は、目に見える人間たちの世界のことです。この世界は天使など目に見えない存在と目に見えるものとがありますが、ヨハネが「世」という時、「私たちの暮らしている大地または大地の上に生きている人間たち」のことです。わたしのことであり、みなさんのことです。今朝はこのような三つの意味を含みながら、そのままにしておいては滅びてしまう、自滅してしまう人間たち、その一人一人その総体を意味していると考えましょう。

 今朝のメッセージで重要な点は、私たちにとっても、不法、争い、理不尽さ、問題の大きさに怒り、絶望を起こさせ、無関心にならなければ「鬱鬱と」になってしまうような世界を「神が愛された」ということです。これは驚くべき告白です。今日、争いが絶えない世界の罪深さが一方にあり、神を徹底的に拒む世界があり、他方、神がその独り子イエスをお与えになったほど愛されている世界、その愛の目的が「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と言われている世界でもあるということです。この両方を考えながら、私たちはバプテスト「世界」祈祷週間を迎えるのです。

 

3.     異なった文化と異なった隣人に出会う喜びと痛み

 以上の聖書の証言を受けて、その応答として、日本バプテスト連盟が推進してきた国外伝道について、特に私が青年達と訪問したインドネシアについて触れたいと思います。

 現在私たちは、インドネシアに野口日宇満・佳奈宣教師を派遣しています。それ以前は木村公一・おっちょ宣教師夫妻、それ以前は浅見祐三・鈴子宣教師夫妻でした。木村宣教師夫妻の時に私は青年達を連れてインドネシアを訪問しました。いつ頃のことか古いパスポートを見ましたら、1988年の事でした。今から38年前のことです。先日5日に礼拝にお見えになった山田哲也さん、私が牧師をしていた栗ヶ沢教会の大谷理さん、札幌教会の確か宮崎といった男性青年、そして、やがて鳥栖教会の野中牧師と結婚されることになり大里恵美さん、名古屋教会の牧師を父に持つ池田マナさんたちでした。当時アジアではNHKの朝ドラの「おしん」が流行っていて、大里さん、池田さんはモテモテでした。我慢して努力したら当時の日本のように豊かになれるという夢を東南アジアの人々に与えていたのです。

この旅行は波乱含みでした。まず、バンコクと同じように暑い暑いジャカルタに到着しましたが、約束した木村宣教師は空港におりません。青年たちは青い顔です。そもそも日本とは違って電話は滅多に通じません。私は、アジアはたぶん初めてでしたが外国経験もあるので、「その内来るだろう」とのんびりしていました。すると、木村さんは涼しい顔で、「セマランで飛行機に乗り遅れた」と言って次の便で、数時間後にやってきました。インドネシア時間ですかね!帰路の飛行機がまた大変でした。ガルダーインドネシア航空は大幅に遅れ、6時間以上ジャカルタで待たされ、挙句の果てに発券された搭乗券に座席番号はあるものの私の席がありません。女性クルーに文句を言うとバリ島から帰国する日本人のキャンセルが多く、常にオーバーブッキングで日本人の所為だというのです。そもそも、数日前に神学校のあるセマランのガルーダ航空の事務所で搭乗予約再確認(リコンフォーム)に行くと、事務所の女性はコンピューターを操作せずにOKというのです。なぜOKなのかというと問うとOKだからというのです。この時点でたぶん席がなかったのころかも知れません。木村宣教師の話では賄賂をあげなかったからかも知れないということです。彼自身がジャカルタのガルーダの本社で押し込んでくれてようやく私を入れて6,7名の席が確保されたのですが、私だけは女性クルーの隣の席に座って帰国したわけです。世界に目を向けるときにこのような異文化体験、異文化交流ができるわけです。先ほどの大谷理さんはインドネシアにはコンビニがないと不平を言います。信号待ちで停車しているとタクシに小学生低学年の子どもたちが寄ってきて窓を吹こうか、花を一輪買えというので驚いたようです。さらに地方の教会を訪問した時に、どこで大便をするかというので、「庭の奥でやって来い、日本でも昔はそんなもんだ」というともう半ベソでした。札幌から来た青年はやめろという注意も聴かず、日本円を大量のインドネシアルアに交換し、余りの札束の多さに驚いていました。最終日にルピアが余って土産物に刃渡り60センチから70センチもあるヒンズー教の踊りに出てくるようなクネクネの剣を買い込みました。「これ、銃刀法違反だよ」と私が言いましたが、案の定、成田空港で没収されました。彼は「あの刀はどうなるのか?」と聞くので、「次回出国する時に返してくれて再び入国するときにまた没収だよ」というと大分へこんでいました。

 

 4.日本によるアジアへの戦争責任

少し話を変えます。私が学んだことは、かつて大日本帝国がインデネシアの一部を占領していたことです。それは知っていましたが、その時捕虜にしたオランダ人女性を従軍慰安婦にした事実は知りませんでした。決して忘れてはならない酷い歴史です。ある年老いた男性には、「お前は日本人のくせに頭を坊主狩」にしていないな」という嫌味を言われ、日本人に教わったという「炭坑節」を見事に歌ってくれました。悪気はなかったとは思いますが、私は胸が痛くなり、東南アジアに出向く日本人はかつての戦争責任を自覚しなくてはならないことを痛感しました。

 宗教的にはインドネシアはイスラム教徒が90%以上です。私が英語で説教する際に、木村先生から注意されたことは「God」(神)という言葉はモスリムの「アッラー」と区別ができないので、「Jesus」(イエス)という名を使ってくれということでした。また、文化的には、左手は不浄の手であるので、ものをあげるときに左手を使わないこと、子どもの頭に手を置いて「良い子」などと言うのは相手に屈辱的感情を持たれるのでしてはいけないこと、出された食事は全部食べないこと、なぜなら、隣の部屋で子どもたちが、お客さんの残した食事を食べるのを待ちわびているからとのことでした。食べ物を残してはならないという日本とは違う文化です。

 

5.教会の使命:祈ること

インドネシアの話が長くなりました。38年前と現在ではインドネシアは随分変わったことでしょう。それでも宣教師を派遣することは異文化を知ること、自分たちの常識を見直すことなど多くの実りがあることには変わりがないと思います。神がその独り子を与えたほどに愛された世界です。最後に、「祈り」の大切さに触れて今朝のメッセージを終わります。

先日札幌教会の浦瀬祐司さんが西南学院大学神学部の奨学金委員会の仕事で福岡に来られました。疲れて寝ていたのですが、電話で呼び出されて西南学院大学の図書館のカフェで50分ほどお話しました。彼は私とほぼ同年齢であり、共に反靖国神社・天皇制問題を担ってこられた社会的関心の強い方です。その方が「松見さん、キリスト教会にとって祈る事こそ重要な働きではないでしょうか?」と言われました。ウクライナとロシアの理不尽な戦争行動に加えて、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に直結する、ガザ地区でのハマスとイスラエルの悲惨な武力紛争に直面しています。そのような事実に直面して、絶望することなく、しかも世界に起こることに無関心にならずに、教会がなすべきことは「祈る事ですね」と言われた。積極的に平和を求めて社会運動をしてきた方の発言です。私も「全くそうですね!まさに祈ることが私たちの使命ですね」と応じて、意気投合しました。よく、祈ることだけではなく、行動をと言われます。しかし、祈りこそキリスト者の行動そのものではないでしょうか。キリスト者と教会が「祈る」という本務を忘れたら、「歌を忘れたカナリヤ」のように後ろの山に棄てられてしまうかも知れません。現在、直接言葉によってイエス・キリストを伝えること自体が反省され、また、献金も少なくなり、日本バプテスト連盟と女性連合は国外伝道から少し手を引きつつあるようにも見えます。しかし、戦争の絶えない世界に向かって、世界のために「祈ること」を止めてはならないと思います。この世界は、「神がその独り子をお与えになったほど愛され」、自滅せずに、異質な他者と共に「救われる」ことを神は望んでおられるからです。「シャローム」(神にある平和)の実現のために祈りましょう。(松見俊)