1: 使徒である証拠
パウロは三度目の訪問を行うとして話を進めます。これは、この後の【すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。】(1)という、三人の証人と対応した言葉となっています。パウロ自身が三度コリントに行くことが、三人の証人と同等の意味を持つものとして話しているのです。実際にユダヤ教では、同一人物による三度の訪問が、三人の証人と同等であると見做されるということがあったようです。パウロが証人となると、裁く人もパウロとなってしまうので、裁判としては成り立ちません。ただ、それほどにパウロにとってコリントの教会は大切な教会だったのです。ただ12:20~21に見るように、多くの問題がコリントの教会にはありました。パウロは、どうにかしておいてほしいと願っていたのです。
コリントの教会において大きな問題となっていたのは、パウロの使徒性が疑問視されていたことにあります。一つの理由に、パウロの弱さがあります。「あなたがたは証拠を求めている」(3)。コリントの人々はパウロがキリストの使徒である証拠を求めていました。パウロは「キリストの十字架によって現わされた弱さと、神の力によって復活された強さ」を語ったのです。パウロは自分に与えられているキリストによる救いを語ることによって、自分はキリストの使徒だということを示したのです。パウロは自分の弱さ、そしてそこに現わされる、キリストの力こそが、自分がキリストの使徒である最大の証拠だとしたのです。
2: イエス・キリストがあなたがたの内におられる
パウロは【信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。】(13:5)と言いました。これは「自分を見つめて、悔い改めなさい」という意味を込めて語った言葉でした。パウロはコリントの人々を懲らしめたり、追い詰めたりすることではなく、キリストに繋がり、神様の恵みを受けて生きることを望んでいたのです。
パウロはこのように言いました。【あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。】(13:5)ここでの「自己吟味」とは、自分の行いを律法的に見て間違い探しをし、行動を改めることではなく、「イエス・キリストがあなたがたの内におられること」をまず第一に頂くように勧めているのです。信仰とは「イエス・キリストが私たちの内に来て下さっている」ことを全面的に信頼し、受け入れることにあるのです。
パウロは、「自己吟味をしなさい」と言いました。これは信仰共同体としてある、コリントの教会に向けて語った言葉でもありました。教会がすべきことは何でしょうか。礼拝、賛美、祈り、牧会、伝道、学び、奉仕・・・様々な働きがあります。
3: 教会が造りあげられるため祈る
パウロは、6節、9節で「祈っています」と言います。特に9節では【13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。】(13:9)と言うのです。
パウロは、自分たちがどのように見られたとしても、コリントの人々が「強い」こと、「完全な者となること」を願い、祈るのです。パウロは、コリントを創立した一人、牧会者として、この教会が「壊れること」ではなく「造りあげられること」を願っていました。
当時、コリントの教会はローマ帝国に支配され、ギリシア文化の中、経済的には豊かで発展した都市であり、社会の倫理、特に性的倫理は崩壊していたとされる、そのような状況にあってできた教会でした。パウロはコリントの教会のために祈るのです。コリントの人々が教会として、悔い改め、もう一度、自分たちのところにキリストを迎え入れること、パウロの願いであり、祈りでした。
4: 愛と平和の神が共におられる
現代も様々な教会で、争いが起こり、分裂が起こります。そのような中で、パウロがコリントの教会に【愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。】(11)と言い、励ましているように、私たちのところにも、愛と平和の神が共にいてくださることを信じて、受けていきたいと思います。
パウロはⅠコリントの終わりにはこのように言いました。【主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。】(Ⅰコリント16:22-24)
また、Ⅰテサロニケではこのように言いました。【5:28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。】(Ⅰテサレロニケ5:28)
また、ガラテヤ書ではこのように言いました。【6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。】(ガラテヤ6:18)
Ⅱコリントの特徴的なのは、続けて「神の愛」「聖霊の交わり」が加えられていることです。これはパウロが厳密に三位一体を考え、主張したというよりも、恵みがあり、神の愛があり、その恵みと愛を受けた交わりを、聖霊に導かれて行うようにと理解する方が妥当とされます。パウロは、分裂し、迷走するコリントの教会に、この恵みと愛と交わりを頂くことを願い、祈り、最後の言葉としたのです。