1: 神を神としない
神様の裁きの言葉がエレミヤ書21章から23章の2節まで続いています。イスラエルの王様、牧者の最大の罪は神様に目を向けず、神様の言葉に耳を傾けることもなく、神を神としなかったことにあります。イスラエルは、アッシリアやバビロンに攻めたてられた時、神様を一番とすることを忘れて、神様ではなくエジプトを頼った。軍事力に対して軍事力で対抗しようとしたのです。神様は、このことを「災いだ」と言われます。私たちもまた、神様を神様とすることを忘れ、自分の思いを中心に生きる時、暴力、暴力的な言葉をもって隣の人を悲しみに陥れていることがあるのです。
2: 神の牧者 イエス・キリスト
神様は、そのような人間に「一人の牧者を立てる」と言います。このエレミヤの預言は、バビロン捕囚からの解放の預言であり、またメシアの到来を預言したもの、または終末の時の預言であるともされています。神様は羊をもとの牧場に帰らせる牧者として、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。牧者であるイエス・キリストは、十字架をもって、神とは何か、どこにいるのか、どのように関わってくださる方なのか、そのすべてを教えてくださるのです。イエス・キリストの十字架を見る時、私たちはどのように生きるべきなのか、今一度考えたいと思います。
3: 出エジプトを超えた救いの出来事
イスラエルの人々にとって出エジプトの出来事は、神様から与えられた最大の救いの業とされてきたのです。このイスラエルの人々に出エジプトの出来事を超えた出来事が起こると言うのです。当時の意味としては、バビロン捕囚からの解放を意味する言葉と理解できます。今、私たちは、出エジプト、バビロン捕囚からの解放をも超えた救いとしてイエス・キリストの誕生を見るのです。イエス・キリストの誕生は、これまで持っていたすべての喜びを超える恵みなのです。
4: 再び来られるキリストを待ち望む
イエス・キリストが再び来られることにも目を向けていきたいと思います。今日の5節と7節では「見よ、このような日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ23:5,7)と教えます。私たちは、希望を持ちキリストの到来を待ち望みたいと思います。この世を見渡す時、本当にこの世に神様がおられるのか疑問を持つほどに混乱と紛争、差別が蔓延しています。ただ「だから神はいない」のではなく、「イエス・キリストが必ず来て下さる」のです。イエス・キリストが、この世を本当の愛の世界へと導いてくださるのです。(笠井元)