ヨハネによる福音書は、キリストの到来の道備え、整える働き人としてヨハネの物語をイエス・キリストの物語の前に置く。18節は、端的に「これはヨハネの証である」と語る。
1.「ヨハネ」について:ヨハネとは「ジョハナーン」というベブライの名をギリシヤ・ローマ語化したもので、「主なる神が授けた者」という意味である。ルカ1:61によるとザカリアは、この子は主なる神が恵みと特別な使命をお与えになった、授かった子であり「ヨハネ」にすると言っている。ヨハネについてはイエスの12使徒のヨハネとバプテスマのヨハネとこの福音書を書いたヨハネの三人を区別しなければならない。
2.ヨハネのバプテスマ運動:26節~28節によるとヨハネはヨルダン川の東岸にあるベタニアという処で「水の浸礼」を授けていた。ここはイエス様がヨハネの弟子としてバプテスマを受けられた場所。当時のバプテスマ運動については、ユダヤ教の改宗者へのバプテスマ、ファリサイ派の清めの儀式、エッセネ派の全身沐浴などがあるが、ヨハネは、ユダヤ人もまた回心してバプテスマ(浸礼)を受けるべきだと主張した。
3.ヨハネとは誰であり、何であるのか?:マルコ1:5によれば、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼(ヨハネ)からバプテスマを受けた」とあり、危機を感じたユダヤ教の当局者たちはエルサレムから使者を派遣して尋ねさせた。「あなたはいったい誰?」「あなたは何をしているのか?」と。
4.ヨハネの明確な告白:ヨハネは「あなたはどなたですか」という問いに隠すことなく、黙することなく「わたしはキリストではないと」 と告白。「では何ですか?」という問いには、エリヤの再来でもモーセの再来でもないと語る。1960年代後半から、「自分は再臨のキリストである」と嘯いた統一協会の文鮮明、「自分は神である、キリストである」と喚いた「幸福の科学」のカルトのおっさん、どこかで、お安く「神ってる」日本人たちの中で、私たちは何を、誰を公に告白するのか?
5.神のみ子を指さす者「指」としてのヨハネと私たち:ダ・ビンチの「バプテスマのヨハネ」という絵画があるが、モナリザの微笑にも勝るとも劣らない不思議な微笑で右手を上げ天を指し、左手に長い杖のような十字架を持っている。「岩窟のマドンナ」においても幼子イエスを指さす幼きヨハネが描かれている。ヨハネはキリストを指す「指」に徹している。先の戦争中キリスト教会は天皇制軍国主義に妥協し、それを反省して赤岩栄は共産党に入党した。牢獄の中で椎名麟三は仲間の共産党員が天皇制軍国主義に転向する姿を見て、絶望し、差し入れられた聖書を読んでキリスト者となり、牧師で共産党に入党した赤岩栄によって洗礼を授けられた。戦後赤岩と椎名は共に「指」という雑誌を刊行した。元西南学院大学第17代理事長の斎藤末弘は椎名鱗三の研究者であり、この「指」の系譜は椎名鱗三を愛読する松見に至っている。
6.キリストの到来を整える者:ヨハネは自分を誰というのか?預言者イザヤ40:3に描かれている「荒野の「声である:と言う。イエスの先輩、師匠であるにもかかわらず、ヨハネは「後から来られる方」を指し示す指であり、証しする「声」である。わたしたち一人一人は、ヨハネのようにキリストを指す「指」として「声」として生きたいものである。(松見俊)