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2023.12.17 「救い主が来られる『幻』を見つつ」(全文) Ⅱペトロの手紙3:8-13

1:  キリストの再臨

 先々週の土曜日には、幼稚園でクリスマス礼拝・祝会が行われました。毎年、クリスマス祝会の中では、子どもたちによるページェント、降誕劇が行われます。イエス様がお生まれになった時の劇で、マリア、ヨセフ、ガブリエル、天使、羊飼い、博士などが登場します。私自身は、キリスト教関係の幼稚園ではなかったので、幼稚園では、そのような劇をしませんでしたが、教会の教会学校のみんなで毎年、同じように、降誕劇を行いました。当時、私が通っていた教会での劇の中で、いつも人気な役は、なぜかヨセフやマリアではなく、羊飼いでした。羊飼いは、何人もの多くの友達と一緒にできる役でしたし、そのセリフも、アドリブで、好きなことを言うことができる役だったからだと思います。羊飼いのセリフとして、昔のことなので、あまり正確ではないですが、「救い主はまだお生まれにならないのかな~」「私たちのお父さんのお母さんのそのまたおじいちゃんの、そのまたおばあちゃん、ずっとずっと前から待ち続けてきたんだ」「そろそろかな」「いやまだまだだよ」「わからないよ」「明日かも」「まあさすがに今日ってことはないだろう」「そりゃそうだ」「わたしたちも子どもたちに待ち続けることを教えていかないとね」・・・といったようなセリフがあり、そこに天使がやってくるというお話となっていました。当時、小学生だった私たちにとっては、このやりとりで、アドリブで、「今日かもよ~」というところで「あなたせっかちだね。」とか、「君がのんびりなんだよ」など、何でも言ってよかったため、どうにか見ている人を笑わせようと考えたものです。

 この劇にあるように、ユダヤの人々は救い主を待ち続けていました。何年も、何百年も、ずっとずっと待ち続けていたのです。昔から、そしてこれからも、待ち続けるだろうと思っていた、救い主。クリスマスは、その救い主が来られた時なのです。そんなすごい日が来たのです。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。みんながずっとずっと希望をもって、待ち続けていた救い主が誕生された。それがクリスマス、イエス・キリストのお誕生の時なのです。

 今日の箇所は、どちらかというと、そのようなイエス・キリストの誕生というよりも、そのイエス・キリストが生まれた後、天に昇られ、そしてもう一度来られること、つまり、キリストの再臨の時を待っている人々への言葉となるのです。つまり、2000年前から、今に至るまでのキリスト者へ向けられた言葉、今の私たちに向けて語られている言葉と言ってもいいでしょう。何年も、何百年も、もはや何千年も待ち続けている、イエス・キリストの再臨です。 当時の教会でも、今か、今かと待ち続けていた、イエス様の再臨です。ただ、当時の教会では、わりとすぐにイエス様がもう一度来られると考えられていたため、なかなかイエス様が来られない中で、不安が生まれていました。

 「イエス様は本当に来られるのか」。「もしかしたら来られないのではないか」。「自分たちが信じている神様、信仰は本当に正しいのか」。そして逆に、「まだまだ来ないだろう」という思いも生まれていたのです。先ほどの羊飼いのセリフではないけれど、「そろそろかな」「なかなか来られないね・・・」「今日かな」「いやそれはさすがにないだろう」・・・「明日ということも・・・ないだろうね・・・」「まあ、自分たちが生きている間には来ないかもね・・・」といった思いも生まれていた。そのような思いから、イエス・キリストが来られることに対する緊張感が失われ始めていたのです。そして、そのような教会に、今日の言葉が教えるのです。【ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。】(Ⅱペトロ3:9)

主イエスが来られるのは、遅くなってしまっているのではない。私たちのために神様が忍耐しておられるのだと教えているのです。

 皆さんは、いずれ、主イエス・キリストがこの世に来られることを信じているでしょうか。そしてそれが、今日かもしれないし、明日かもしれない。そのような緊張感を持って生きているでしょうか。クリスマスの時に、ユダヤの人々は、待ち続けていた救い主の誕生が、この時、今、来られるとどれだけ信じていたのでしょうか。「まあいずれ、いつか・・くるだろう。今ではない、明日でもない。いつか・・・」という思いを持っていた人が多かったのではないでしょうか。そこにイエス・キリスト救い主はお生まれになったのです。そして、今の私たちは、このイエス・キリストの誕生を知っています。また、その日を、毎年、覚えているのです。 

 今日、私たちは、今、このときに、私たちのうちに生まれ、そしてまた来られる方、世界の救い主を覚えたいと思います。今日は、このキリストの誕生を、過去、今、そして未来という視点から見ていきたいと思います。

 

2:  へりくだって生まれたイエス・キリスト

 イエス・キリストは、救い主として確かに生まれました。王の王、主の主、私たち世界の救い主です。しかし、その主なる方は、小さな小さな者として生まれ、そして生きたのです。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8)ユダヤの民が待ち望んだ救い主、イエス・キリストは、神でありながらも、むしろ自分を無とされ、僕となられたのです。へりくだり、仕える者となられた。これが救い主の姿です。今日の、劉先生のコラムにもありますが、マタイによる福音書に登場する、東の国の博士たち・・・占星術の学者たちは、エルサレムの王宮にイエス様が生まれると思っていたのです。救い主ですから、この世において一番偉いところに生まれると思ったのでしょう。しかし、実際のところ、イエス様は馬小屋に生まれました。生まれる家も、部屋もなかったのです。私たちがこのアドベントの時、待ち続ける主イエスは、このような方なのです。自分を無とし、裏切られ、人間としての苦しみを受け続けられた方です。

現在、この世界は混沌とした状態です。ウクライナにおいてロシアによる戦争が起こり、ガザ地区ではイスラエルとパレスチナ、ハマスの戦争が続いています。これがどのように、なんで始まったのかは、色々な理由が重なり合っており、実のところ誰も「これが理由だ」と言い切ることはできないのではないかとも思うのです。

 幼稚園の子どものケンカでも、一人の子が、隣のお友だちを叩いたとして。ただよくよく聞くと、先にお友だちがその子にすごい悪口を言っていた。ただもっとよく聞いてみると、その子は何日か前に、その叩いた子から、いじわるをされていた。・・・などと、幼稚園児のケンカですら、本当のところで「なんでだったのか、どっちが悪いのか」ということを見つけることは難しいこともあります。そのため、先生が、どちらが正しく、どちらが悪いとジャッジすることは難しいですし、そのように、どちらかを正しいとし、どちらかを悪いとしてしまうことが求められているのでもないでしょう。先生はもちろんできるだけ寄り添うように努力をしますが、教えられることは一つです。 「あなたが叩かれたら悲しくない?」「あなたが嫌なことを言われたら悲しくない?」「相手の気持ちを考えてみよう。」そして、もう一度お互いを大切にすることを約束して仲直りするように促します。ケンカをするのではなく。お互いを大切にしよう。大人が子どもにこのように教えていきたいことではないでしょうか。

しかし、今のこの世界は、大人がそこら中で喧嘩ばかりしているのです。大人が子どもに、「自分の利益のためなら、相手を傷つけてもいい」と教えています。これは間違っていると思います。

ただ難しいのは、この社会では、「自分の身を守るためなら。または自分の大切な人を守るためなら。」という理由になると、実際に、「相手をたたいても、殺してもいい。そうするしかないのだ。」と考えることはあるということです。イスラエルがハマスを攻撃している理由としては、まさにそのような理由を全面に押し出しています。

皆さんは、どのように思われるでしょうか。「やりすぎないようにしましょう。」そのように教えているのが、この世界なのです。それでは、相手を傷つけることもわかっていながらも、それも必要だとするのです。それしかできないのです。それでも相手のことだけを考えるということは、私たちには難しいのかもしれません。本当に、人間というものの、不完全さを教えられます。

 このような混沌の世界、人が人を傷つけ、殺し合う。そのような世界に、イエス様は来られたのです。しかも、力をもって人々を押さえつけるのではなく、どちらかが正しく、どちらかは悪いとジャッジするのでもなく、ただただ、人々に仕えられた。殴られても、十字架の上で、つばを吐きかけられても、どれほど罵られても、命を奪われても・・・イエス・キリストは、そのような人間の弱さ、不完全さ、醜さ、を受け止められた。痛み、苦しみ、傷つきながら、神の子イエス・キリストは、この混沌とした世界を愛された。完全に愛するということは出来ない、不完全で、醜い者、そのような人間を愛されたのです。この出来事の始まりが、クリスマスです。混沌の、この世界に一点の光が生まれた。どれほどの絶望の中にあっても、決して希望は失われなかった。これが私たちが待つ、クリスマスの出来事なのです。

 

3:  イエス・キリストを受け入れる準備の時

 今、このイエス・キリストは、この世に生まれられているのです。今日の箇所では、【主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。】(3:8)と言われます。イエス様の誕生は、2000年も昔に生まれた出来事です。それは確かに、この世界の歴史の中に来られたことを教えます。ただ、同時に、神様の一日は千年のようで、千年は一日のようなのです。つまり、時間が神様を縛ることはないということです。神様は、時間を越えられた存在なのです。

神様は、今も、私たちの救いのために、イエス・キリストを送ってくださっている。今、この混沌の世界を生きる、私たちのところにイエス・キリストは来て下さっているのです。今、この時、イエス・キリストが、わたしたちの隣に来て下さっているのです。アドベントは、その心の扉を開いていく時ともいうことができるでしょう。イエス・キリストがこの世界に誕生された。そして今、私たちの心に来てくださっている。このイエス・キリストの誕生のために、私たちが心を開き、受け止めるための準備の時とも言うことができるでしょう。 私たちは、イエス・キリストの誕生を受け止めるだけの準備が出来ているでしょうか。すべての者に従い続け、命を投げ出して、愛することを教えられた、その愛を頂いて生きる決心が出来るでしょうか。

 クリスマス。それは、イエス様の誕生。私たちを愛する救い主の誕生を、「さあ、みんなで喜びましょう」という時です。ただその「みんな」の中には、自分を傷つける人、自分が嫌いな人、自分の大切な人を奪い取っていく人。そのような人々もすべて含めた「みんな」です。皆さんは、そのように「みんな」でクリスマスを喜ぶ準備が出来ているでしょうか。私たちのところにイエス・キリストが来てくださった。しかしそのイエス・キリストは、「私」だけではなく、「あなた」のためであり、「すべての人」のためであり、その姿は、命を懸けて仕え続けるという姿なのです。

 この方を「わたしの主」「わたしは、この人に従って生きていく」と、心にイエス・キリストを受け入れる準備が出来ているでしょうか。今、このアドベントのときは、私たちが、このイエス・キリストを自らの主と受け入れる準備の時でもあるのです。「自分は、自分の思い通りに生きていきたい」という思いを捨てて、「イエスこそが、主」「私はこの方に従って生きていく」と決心するための準備です。

このアドベントのとき、私たちは、自分のところにイエス・キリストが生まれることを受け入れる決心をしていきたいと思います。

 

4:  キリストの再臨を待つ 始まりの時を期待しつつ

 最後に、イエス・キリストがいずれ来られる、未来という視点から見ていきたいと思います。最初に言いましたが、今日の箇所は、いずれ起こるイエス・キリストの再臨を示します。このアドベントの時、私たちは、イエス・キリストの誕生を待ち望みます。そして、すでに起こった救いの出来事、イエス・キリストの誕生、そして十字架の死と復活ということを覚えます。そしてそれは必ず起こる出来事、再臨の時を覚える時でもあるのです。イエス・キリストは、必ず、もう一度来られる。神の国の到来、神様の愛の完成の時が必ず来るのです。これは、言い方を変えると、「終末」の時、終わりの時が来るということでもあります。終わり。しかし、それは終わりというよりも、始まりの時と言ったほうがよいと思います。再臨の時、それは、この混沌の世界が終わり、神様の愛の世界、秩序のある世界の始まりの時であり、完成の時なのです。 

 終わりがくることは、悲しいこと、辛いことかもしれません。特に、私たち人間にとって一つの終わりと思われる「死」というものは、多くの人を悲しませます。しかしまた、終わりがないことの恐ろしさも覚えたいと思うのです。不完全な者として、お互いを傷つけ合い、殺し合う。このような混沌の世界が、変わることなく未来永劫、続き続けることが、本当に幸せなことなのでしょうか。イエス・キリストの再臨。その終わりの時は、傷つけあう者が、お互いのことを想いやる者とへと変えられる時です。殺し合う者が、お互いの命のために生きる時。そのような共に喜ぶ時の始まり、共に恵みを頂き、共に生きる命の始まりです。本当の命、愛の始まりの時なのです。

聖書はこのように教えます。【ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。】(Ⅱペトロ3:9)神様は、「一人も滅びないで、皆が悔い改めるように・・」願い忍耐されているのです。

再臨の時。それは神様の希望による「幻」を見て生き続ける先にあるのです。私たちは、「いつか、イエス様がくるから、今はどうでもいいや」とか「イエス様が来られたら、どうにかしてくれるだろう」として生きるのではないのです。私たちは、イエス・キリストが来られるという「幻」を見つつ、その希望を持ちつつ、キリストの愛を分かち合う者として、その愛を広げていく者として、生きてきたいと思うのです。

 

 

私たちは、今、ここにキリストが来ることを願いつつ、これからも、キリストの再臨を待ち続けていきたいと思います。今、世界は闇が深まっているように思えます。どこに希望があるのか、どこに光があるのか。「主の約束は本当に起こるのか」と不満、不安、疑問が生まれます。今、神様は、「皆が悔い改められることを待ち、忍耐しておられる」のです。この世の終わりは、闇ではなく、光の時。苦しみではなく、喜びです。絶望ではなく、希望、神様の愛の完成の時です。イエス様は必ず、再び来られます。神様はこの世界に救い主の誕生を、クリスマスの出来事において実現されました。そして今、私たちは、その愛をもって、愛の完成の時を待ちつつ、愛の完成者が来られる幻をみるように教えられているのです。私たちは、今を、神様から与えられた恵みの命として、主イエスと共に、主イエスに従い、お互いを大切にし、お互いに仕え合い、祈り合い、精一杯生きていきたいと思います。(笠井元)