今年9月16日に先輩教授であった人の出版記念会があり、その人の娘さんがZwillinge(双子)という銘の入った「栞」をくれました。そこには「Jesus ist Zieger」、「イエスは勝利者である」と書いてあります。この栞をいただいた時、そこに書いてある「イエスは勝利者である」ということを今年のクリスマスにメッセージとして伝えようと閃いたのでわけです。
その理由の第一は、2023年クリスマスに「勝利者」という言葉は使いにくい。世界ではそれぞれが「勝利者」を目指して惨たらしい戦争をしているからです。そうであれば、手離しに「勝利者」などという言葉を使いにくいのです。別にへそ曲がりではありませんが、だからこそ、「勝利者イエス」について触れたいと思ったわけです。
第二の理由は、クリスマスには貧しくされた人たちと共にいてくださる貧しいイエスが語られることが多いのです。それは信仰にとって極めて重要であり、適切であると思います。しかし、それだけで良いわけではないのです。貧しい者の傍らにおられる神のみ子の証言は、神の救いの出来事、溢れるばかりの喜びの出来事の必要条件ではあっても十分条件はありません。イエスが貧しい者達の傍らにいますのは、貧しい者の心、体験を神が理解して下さるために、神がそれらに預かってくださることは必要なことでした。しかし、その貧しい、弱い、悲しい私たちを救い、広がりを与えてくださるには、イエス様は、豊かで、強く、喜びに満ちた「勝利者」でもあらねばならなかったのです。
では、苦しみの多い、孤独なこの世に生きて下さった「勝利者」イエスついて聖書に聞いてみましょう。
1.ブルームハルトについて
「イエスは勝利者」であるという言葉は、ブルームハルトという人と関連して伝えられています。ブルームハルトは、20世紀最大のプロテスタント神学者カール・バルトに影響を与えた牧師です。ブルームハルトは、ドイツのシュトゥツトガルトに生れ、神学校を卒業した後、各地の神学校で神学を教え、また地方の諸教会で副牧師を経験し、メットリンゲンという村の教会の牧師になります。1938年のことで、彼が33歳の時でした。1938年から52年までこの教会で牧会したわけですが、1939年は第二次世界大戦が始まった年です。激動の時代です。その教会にゴットリーベンというかなり精神を病んでいた少女がいました。かなり複雑な精神の病でしたが、ブルームハルトの熱心な祈りの中で、そして、「主イエスよ、助けて下さい」と祈るようにも須々万益田。ある時、まるで悪霊が退散したような出来事が起こります。少女は激しい痙攣の中で、「イエスは勝利者だ」と叫んで劇的に癒されたそうです。すると同じような病の癒しが起こり、新約聖書のイエス様の時代のように多くの人々がブルームハルトを慕って集まってきたと言われています。ここで、注意しなくてはならないことは、「イエスは勝利者である」という叫びは、この少女自身の中から出てきた告白であったということです。癒やしが起こり、そこからカルト宗教が生じたということではないことです。重要なことは、「イエスは勝利者である」という告白は、その反対の言葉、つまり、「人を支配する悪しき霊や病や死が決して勝利者ではない、むろん、戦争による力の制圧者が勝利者ではない」という裏側の告白があって、それがセットになって意味あることであるということです。イエスは勝利者です。
2.ヨハネ16:32-33
それでは、先ほど読んでいただいた聖書の言葉について考えてみましょう。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。(これは完了形の表現です。)しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって、(わたしにおいて、)平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(これも完了形です。)」この言葉は十字架で殺される前の晩に主イエスが語った言葉です。私は、牧師として、死に臨んで生きている人たち、病気の人たちの傍らで何十回もこの聖書個所を読んできました。
裏切られ、棄てられ、ひとりになったイエス。しかし、彼はその中で、「わたしはひとりではない。父なる神が共にいてくださるからだ。」と言われています。そして、殺される前の晩にイエスが話されたことは「あなたがたは、(つまり、わたしたちが)イエスによって平和を得るためである。」と言われます。そこで、私は皆さんに勧めます。クリスマスの夜、皆さんはイエス様にある「平和」「平安」を味わって、暖かい気持ちで家路について下さい。主イエス、「あなたがたには世で悩みがある」と言われます。「スリプシス」という言葉ですが、これは、「狭くされる」「窮屈である」「圧迫されて悩まされている」という意味で、ひと言で「苦難がある」と翻訳されています。主イエスは、皆さんの悩み、窮屈をご存じあると言われるのです。だれが何と言おうが皆さんの苦難、生きにくさをご存知でおられる方がおられるのです。
しかし、それが最後の言葉ではありません。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われるのです。「世に勝っている」つまり、「勝利者」です。「ニケオー」という言葉です。皆さんは、サモトラケの「ニケ」を知っておられますか?ルーブル美術館の一階の階段を上った踊り場にこのニケの像があります。勝利の女神です。胸を張って、雄大な羽根を左右に伸ばしています。顔が失われているだけに、かえって印象的です。あるいは皆さんは「ナイキ」の運動靴を知っているでしょう。あの運動靴を履いて「勝利しよう」とのことでしょうか。私は足が遅いので、ナイキの運動靴で早く走れるならよいですが、そうも行きそうにありません。しかし、人生において、どこか勝利者でありたい、幸せでありたい、自分の人生を喜びたいというのはギリシヤ人だけではなく、人間の共通の想いなのでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」こう言われる主イエスの誕生日がクリスマスです。
4.勝利者は「しのび」微行(インコグニト)で:
先程、「イエスは勝利者である」という言葉は、この世界において、病気や死やそして人の罪深さ、が勝利者ではない、むろん、戦争による力の制圧者が勝利者ではないという裏側の告白があって、それがセットになって意味があることだと言いました。ここで、もう一つ加えなければなりません。この告白には私たちの「信仰」と「愛」が問われているということです。ヨハネは「勇気を出せ」、(サタルセイテ)と勧めていますが、これは自信を持て、思い切った行動をせよ、というような意味です。まあ、信仰を持って愛の行動をせよということでしょう。なぜでしょうか? それは「イエスは勝利者である」ということはそのままでは目に見えないからです。勝利者イエスは「お忍び」(インコグニト)でやって来るからです。ここで、お馴染みの「靴屋のメルティン」の話に触れましょう。ロシアの文豪トルストイの民話集『人はなんで生きるか』という文庫本の中に、「愛のあるところに神あり」という話があります。通称「靴屋のマルチン」の話が掲載されています。絵本で読んだ方が良いかも知れません。7年前に安里直道神学生と子どもたちがクリスマスにこの物語の劇をやってくれました。
マルチンは小窓が一つしかない粗末な地下室に住んでいました。そこで靴屋をしていました。ある日、キリストの声がします「街の往来を見て居なさい。明日わたしはお前の処にいくから」という声です。マルチンは暖炉を炊いて、サモワールにお茶を沸かし、シチューと麦のお粥をこしらえ、イエス様を待ちます。しかし、キリストらしい人はやって来ません。マルチンは道で雪かきをしている爺さんを見て、「寒いだろうに」と思い、部屋に呼んでお茶を飲ませます。また、しばらくすると子どもの泣き声がします。マルチンはアカチャンに泣かれて困っている女性を部屋に案内します。貧しくて食べるものがなく、おっぱいがでないのでした。そこでパンとシチューを食べさせ、その上、銀貨を上げて、「これで質屋からショールを受け戻しなさい」と言いました。また、しばらくすると、子どもが林檎を盗んだのがバレて、おばさんに掴まれて、叱られ泣いているのを見ます。マルチンは林檎代を払い、おばあさんに謝罪させます。少年に「けじめ」をつけさせることを忘れません。こうして、一日が済んでしまいます。とうとうキリストはマルチンの処に来ませんでした。みなさんはこの話のオチを知っていますね。キリストはこれら三人の姿をしてマルチンの処を訪問したのです。その晩、イエス様に会えずに、がっかりしているマルチンに、イエス様は「マルチン、マルチン、ありがとう。お前は私に温かくしてくれたね」と言われたということです。ドストエフスキー、ゴーゴリ等と並ぶロシアの文豪たち、そして、マルチンは現在のプーチンのやっていることを嘆き悲しんでいることでしょう。大切なことは、「勝利者イエス」は「お忍び」で来られるので、信仰の心でしか見えないのです。いや、積極的に言えば「勝利者イエス」は見えない形で現在も私たちの処に来て下さるし、来てくださっているのです。祈りましょう。(松見俊)