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2023.12.24 「闇の中で輝く光」(全文) ヨハネによる福音書1:1-5

1:  光は必ずある

何年かに一度は、このように24日が日曜日となります。私がこちらに来てからは2017年度が同じように、24日が日曜日だったと記憶しています。また、私が北海道で牧師をしていたころにも同じようなことがありました。その時の記憶では、朝から大雪で、朝5時から2時間雪かきをして、礼拝前にもう一度、今度は1時間くらい雪かきをして、礼拝・祝会後、16時くらいからイブ礼拝に備えて、もう1時間ほど雪かきをしたことを覚えています。クリスマス礼拝、イブ礼拝とあったのですが、この時の思い出としては、何度も何度も雪かきをした北海道の大雪の厳しさを覚えています。また、同時に、そのような大雪の中で、教会の人もあまり来られないのではないかと心配していたところに、いつもよりも多くの方々が来られ、たくさんの人々と笑顔でクリスマスを迎えることができたことを良く覚えています。 クリスマスは救い主イエス・キリストが、この世に生まれたことを喜ぶ時です。私たちは、この日を喜びたいと思います。

ただ、この世に生きる私たちにはいろいろなことがあります。それこそ、一寸先は闇と言われますが、大雪が降ることもありますし、人生の一歩先には何が待っているのかは、わかりません。人生では、本当に苦しくて、喜べない時もあります。同時に、どれほど苦しくても、小さな一つの言葉や出来事によって、心が照らされ、喜びに満たされることもあるのです。一寸先は光と言う場合もあるでしょう。クリスマスの時、私たちは、そのような私たちの中に、時に、一緒に疲れ、苦しまれるために、時に、一緒に喜び、笑うために、神様が、人間としてお生まれになったことを覚えたいと思うのです。どのような時であっても、神であり、人間であるイエス・キリストは、私たちと共にいてくださるのです。

 私は、普段は、牧師館と教会と幼稚園の行き来ばかりで、あまり外に出かけることがありません。少し、健康を考えないと・・・と思い、先日夜に、久しぶりに、散歩に出かけたのですが・・・その日は曇りで、空を見ても、星一つ見えませんでした。それでも、現代は、周りには、沢山の光があります。街灯だけでなく、コンビニなどの光が沢山あり、あまり暗いとは思いませんでした。ただ当たり前のことなのですが、「雲があると、空に月、星が見えないな~」と思いながら、この世の暗闇を感じていました。

この一年を考えると、本当に暗いニュースの多い一年だったと思います。ただ、最近は、一年を振り返ったときに、このような思いになるのは、今年だけではないことを思わされるのです。むしろほぼ毎年そのような思いになっているように感じるのです。2022年は、ウクライナでの戦争が始まりました。2021年はミャンマーでクーデターが起こり、軍事政権が始まりました。2020年は新型コロナウイルスの感染が世界中に拡大したのです。暗いニュース、苦しいこと、気持ちが落ち込むことを挙げればきりがないと思います。

皆さん心は疲れていないでしょうか。私は、本当にため息しかでない時があります。そのように心が落ち込む中で、真っ暗闇の中、散歩をしていたのですが、家に帰る少し前で、小さな星が見えたのです。別にすごく輝く星ではありませんでした。ある意味とても小さな星、小さな光です。ただ、雲の合間をぬって、そのように光を見ることができたので、それだけで、なんだか少し心に喜びの思いを得たのです。

光があった。さっきまで、暗闇に遮られて見えなかったけれども、光がなくなったわけではなかったのです。私の目に見えていなかっただけで、それまで遮っていた雲が、少し動いたことによって、その星の光が見えたのです。雲が光を飲み込んだのではなかったのです。私は、その小さな一つの光に、神の子、イエス・キリストを感じました。イエス・キリストはこの世の光として来られ、世界を照らしておられるのです。私たちの主イエス・キリストはこの世に来られた光です。どれほどの闇がこの世界を覆おうとも、その光が飲み込まれたわけではない。なくなったわけではないのです。必ず光はある。必ず一点の光が私たち一人一人を、そしてこの世界を、照らす光となるのです。

 

2:  イエス・キリスト 光を注ぐために来られた

 光であるイエス・キリストはこの世に来られました。今日の箇所では、この光であるイエス・キリストのことを、まず「言」として言い表します。もう一度1節から読みます。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。】(ヨハネによる福音書1:1-3)初めに「言」があった。この世界のすべては、この「言」によって成ったのです。イエス・キリストは、この世の光です。そしてその光は、「言」としてこの世を造られた。すべてのもの、私たち人間を含め、この世界は、この「言」イエス・キリストによって造られたのです。キリストに造られたということ。それは、日々の命がイエス・キリストという「言」によって生かされているということであり、そこには「光」がある。私たちは、光であるイエス・キリストに触れられて、今ここにいるのです。キリストの「言」、キリストの「命」、キリストの「光」に触れられて、私たちは今ここに生きている。 

私たちがいるのは、ただの偶然ではありません。それこそ、宇宙があり、地球があり、世界がここにあること、それは奇跡的にできた偶然の出来事ではないのです。私たちは、キリスト・「言」によって、今ここに生きている。この創造の御業は、神の意志によるものであり、キリストがおられることによって、今も続いているのです。クリスマスは、この「言」が肉となり、この世に来られた出来事です。このことを聖書では今日の後の箇所14節でこのように言います。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。】(ヨハネによる福音書1:14)「言」は肉となって、この世界に生まれられたのです。

 私たちは、今この世界に生きています。それは偶然の出来事ではなく、キリスト、「言」、神であり、神と共にある方、その方によって生きているのです。この命は誰のもの、何のためなのでしょうか。このヨハネによる福音書では、イエス様の誕生について、マタイによる福音書、ルカによる福音書に比べると、それほど詳細には記されていません。イエス様の誕生のときに、ヨセフ、マリアに何があったとか、羊飼いたちや、占星術師、ヘロデ王などは全く登場しないのです。それは、このヨハネによる福音書では、イエス様がどのように生まれたかを伝えようとはしていないことを意味しています。むしろ、このヨハネによる福音書が教えるのは、その誕生の意味、「なぜイエス様が生まれたのか」ということ。その目的を教えているのです。「初めに言があった」。この初めからあり、世界を作られた方、「言」であるイエス・キリストが肉として、この世に来られた意味。それは、この世界のすべての命、すべての被造物に光を注ぐため、そしてそれはそこに、新しい命を創造するためでした。

 このイエス・キリストの誕生によって、私たち人間は、本当の生きる意味を与えられたのです。それは神様が私たちと共にいてくださるということ。神様とつながっているということ、そしてそれは神様の愛に触れる者とされた、その道が開かれたということです。私たちは、この神様とつながる者として、この世界に生かされているのです。このクリスマスのときは、まさにこの神様とのつながりの始まりを喜ぶ時です。イエス・キリストが私たちの所にきてくださったこと。そして新しく生きる道が開かれた。闇の中、道も見えずに歩いていた私たちに、生きる道を示して下さった。それがイエス・キリストの誕生です。

 

3:  光に照られた命を生きる

 私たちは、この命の創造主であるイエス・キリストに光を見るのです。光の幕開けです。しかしまた、このイエス・キリストのこの世での道は、光輝く道ではありませんでした。それこそ、罵られ、十字架の上で死なれていく、まさに闇に堕ちていく道。最大の暗闇に堕ちていかれた人生でした。それが、光がこの世で肉となって歩まれた道です。そしてだからこそ、私たちがどれほどの闇の中にあっても、イエス・キリストはそこにおられると言えるのです。そして、また、このイエス・キリストは暗闇から復活されたのです。だれがこの復活を待ち望んでいたでしょうか。弟子たちは逃げ出しました。だれもイエス様の言葉を信じて、復活を待ち望んではいなかったのです。

 

私たちは、何を待っているのでしょうか。何も見えない暗闇の中、まったく想像もできない光が来られることを信じることができるでしょうか。私たちは、暗闇の中で、光を待ち続けることはできないかもしれません。しかし、そのような私たちの思いを越えて、キリスト・光は来られます。キリストは復活されたのです。そして今、私たちは、このイエス・キリストが再び来られるときを待っているのです。イエス・キリストが来られる。どれほど闇に見えたとしても、どれほどの暗闇にあろうとも、主は必ず来てくださる。私たちは、そのことを覚えて、光を待ち続けていきたいと思います。私たちが見るのは、十字架という闇に死に、それでも復活された方。命の創造主です。そして、その方は、今一度、この世界に新しく来られる。光の到来の時がくる。神様の愛の完成の時を待っているのです。私たちはクリスマスのこの時、イエス・キリストが再び来られることを待ち望みましょう。そこに希望があることを。光は決してなくならない。光は必ず来てくださる。このことを信じていきたいと思います。(笠井元)