1: 聖書の引用、読み方
今日の箇所は、旧約聖書(70人訳聖書)からの引用が多くされています。一つの解釈として、著者が自分の意見を語るために恣意的に旧約聖書を引用したとされます。自分の主張を正当化するために、聖書の一部分だけを切り取ってきて「聖書がこのように言っている」と主張することは本来の聖書の読み方としては正しいとはいえないでしょう。キリスト教には、自分たちの主張を正当化するために、聖書を利用をしてきたという歴史があり、今も続いているのです。
静まり、祈り、神様と向き合うことも大切なことです。これも信仰を頂く一つの道です。同時に、そこにはなんでも「自分が正しい」「神様に示された道だ」「変えることはできない」という思いに陥る危険性があるのです。だからこそ、自分勝手な読み方にならないため、共に聖書を学び、他者の意見を聞く耳を持つ必要があるのです。教会はそのような意味でも共に学ぶこと、一緒に考える時間を持つことを大切にしていきたいと思います。特に、私としては、「これが正しい」と思った時には、気をつけなければならないと感じています。
2: イエス・キリストを賛美するために
4節では「御子は天使たちより優れた者となられた」と語っています。そして、イエス様の優位性を語るように、5節から言葉が続きます。著者は、イエス対天使という形を作り、イエス様の優位性を語りたかったのでしょうか。一つの解釈として、当時の読者たちの中でイエス様と天使に関しての考えが混乱しており、天使礼拝といった行為がされており、そのような考えを正すために、イエス様の優位性を語る必要があったとされます。実際に、初期のキリスト教会では、天使を礼拝していたところもあったようです。
ただ、ヘブライ人への手紙全体を見ますと、イエス様が天使よりも優位にあることは、ここと2章にだけでしか言われていません。そのため、もう一つの解釈として、ここではイエス対天使というよりも、ただ一つ、イエス・キリストを賛美しているという解釈があります。引用されている旧約聖書の言葉は、すでに会衆がよく知っている賛美の言葉であり、それらの言葉を用いてイエス様を賛美していた。イエスを「神よ」(8)と呼んでいるように、イエスを神として語り、賛美をしたとされるのです。
3: イエスに救いはないのか
イエス・キリストを神の子とし、「神よ」「主よ」と賛美した。「その存在は、永遠であり、初めに大地も天も創造された方。決して変わることない、神の右に座す方」と賛美するのです。
なぜ、これほどにイエス様を賛美したのでしょうか。その一つの理由として、現代聖書注解では、当時の教会、読者が「疲れていた」とします。
この時の読者たちにとって、イエスという存在は、確かに苦しみを共にした者であるが、苦しみを分かち合うことが、自分たちの苦しみを別のものに変えることはできない者とされた。イエスは十字架で死に、自分を救うことも、他の誰かを救うことはできなかった。イエスはあまりにも人間的であり、傷つきやすく、弱く、貧しく、神以下、そして天使よりも低く見えたのです。
現代聖書注解ではこのようにも言います。「彼の会衆は倦み疲れている。彼らは、この世に仕えることに疲れ、礼拝に疲れ、キリスト教の教育に疲れ、社会の中で特別な目で見られ、世の人々のひそひそ話の種にされることに疲れている。霊的葛藤に疲れ、祈りの生活をどうにか続けようとする努力に疲れ、イエスその人にすら疲れている。彼らの手は萎え、膝は弱くなっている。(12:12)。礼拝への出席者は減っている(10:25)。彼らは詩人を失いつつある」(T.G.ロング『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』p.24)(注:現代聖書注解では便宜上、ヘブライ人への手紙の著者を「彼」としている)
ヘブライ人への手紙の読者はこのような状態だったとするのです。この言葉を聞くときに、今日の教会と重なるように思われるのです。今、教会は疲れ果て、途方に暮れているのではないでしょうか。このような現実を前にして、著者が語ったのは、イエス・キリストの神としての姿でした。神としてのイエス・キリスト、神の御子としてのイエス・キリストです。
確かに、キリストは苦難を受け、十字架で苦しみ、死なれた。人間の弱さの深みまで身を低くされたのです。(フィリピ2:6-8)イエスは何よりも低くされた。しかし、そこに神の栄光が生まれたのです。(フィリピ2:9-11)ここに福音の御業が起こされた。神の救いは、ここにあるのです。
4: 見えないものに目を向ける
この時の読者は疲れ切っていた。それは目の前に起こる現実にです。それは今の私たち自身もかもしれません。「御国が来ますように」、「この地に平和が訪れるように」、「隣の人がイエス様の愛に触れるように」と何度祈ってきたでしょうか。しかし、そのようにはならないのです。心が喜び躍るようなことが起こらないのです。私たちは、今どこに目を向けるのでしょうか。今日の箇所が教えるのは、神の栄光を受けたイエス・キリストを見ることです。(ヘブライ1:10-12)
私たちは、キリストによる救いを目の前の現実だけに見るのではなく、見えない希望・幻として見続けたいと思います。過去、今、未来において変わることのないイエス・キリストの救いです。私たちが生きるこの世界は、そうそう簡単に変わりません。しかし、変わらない現実に飲み込まれ、絶望するのではなく、それでも私たちはキリストに目を向け、「御国が来ますように」「キリストの愛が広がるように」と祈り続け、信じて、キリストに従い続ける者でありたいと思います。(笠井元)