1: 二つの癒し
イエス様がゲラサ地方から帰ってきました。そこには、群集、多くの人々が、イエス様を待っていたのです。人々は、イエス様を喜んで迎え入れました。ただ、この群衆が、指導者に、誘導されることによって、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだのでもあります。誘導する者によって、群集は簡単に、時にはその存在を喜び、時には、その存在を否定し、死を求める。今では、インターネットにより、誰かも、何を考えているかもわからない、そんな中での一言、情報で、群集、世間は動かされます。人間社会は、この群衆、世間の声によって動かされます。群集というものの恐ろしさを感じるのです。
この群衆の中に、ヤイロというユダヤの会堂長がイエス様のところへとやってきました。この時、多くの人々がイエス様の周りを囲んでいたのです。そのような中、ヤイロは、自分の会堂長という立場や、そのプライドも、何もかも捨ててイエス様にひれ伏して、「娘のところに来てくれるように」と願ったのでした。それこそ、群集の目にこの姿がどのように映ったのか・・・、「素晴らしい信仰だ」と映ればいいでしょうが、間違えたら、「ユダヤの会堂長である者が、なんてことをするんだ。ひれ伏すべきは神様のみだ。」と非難される可能性もあったのです。しかし、この時のヤイロには、そんな世間の声、群集の目は、もはや関係なかったのです。「娘を助けてください。」これだけがヤイロの願いでした。このヤイロの姿からは、この時のヤイロの必死さを見ることができます。
ヤイロは、律法学者やファリサイ派といった人々がイエス様に、声をかけたり、質問したりといったような形ではなく、群集の前で、突然、ひれ伏したのです。ヤイロの思いは、とりあえず、癒してくれそうな人として、医者の一人のような存在として、イエス様に「まずはこの人にでも頼んでみよう」といった軽い思いでお願いしたのではなかったでしょう。ただただ、「もうどうすることもできない・・・。助けてください」という必死な思いで、イエス様の前にひれ伏したのです。
イエス様は、このヤイロの家に向かいました。しかし、その時に、別の出来事が起きたのです。イエス様がヤイロの家に向かう中、イエス様は多くの群衆に取り囲まれていました。その中で、12年も出血が止まらない女性が、イエス様のもとへとやってきたのです。そして、イエス様にも気づかれないように、イエス様の服の房(ふさ)に触れたのです。この房というものは、神様がモーセを通してイスラエルに与えられた教えの一つで、イスラエルの人々が、神様の命令を忘れないために、服の四隅に縫い付けていたものでした。神様は、この房を見るたびに、「神様の恵みと教えを思い起こしなさい」と言われたのです。(民数記15:37-41)この神様の教えを思い起こすためについていた、服の房、イエス様の服の房にこの女性は触れたのでした。これだけの群衆の中で、普通なら、服の房に触れられても、まったく気が付かないものでしょう。それは弟子ペトロがイエス様に【「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」】(45)と言うように、誰が触れたかなどはわからないはず・・・。女性も「服の房なら、わからないだろう」と、そのように思って触れたのかもしれません。
しかし、イエス様は、【「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」】(46)と言われたのです。イエス様はこの女性がご自身に触れられたことを感じ取られたのでした。この女性は、このイエス様の言葉に怯えながらも、隠しきれないと知り、震えながらひれ伏し、群集の前で、イエス様に触れたことによる癒しの出来事を告白したのです。この女性がこれほどに怯え、震えたのは、この女性の行為が、当時のユダヤの社会のルールを超えて行ったことだったからでしょう。ユダヤの律法では、この女性のように、出血が止まらない状態の女性は汚れているとされていたのです。この女性は、それが12年間も続いていたのです。この女性は12年間「あなたは汚れている。あなたは汚れた者で、あなたとは誰も一緒に住むことはできない、もしあなたに触れた者がいるならば、その者も汚れている・・・」と、差別され続けてきたのでした。この女性は、社会には入ることが出来ず、誰かと一緒に生きるということから外され、まさに孤独の中で、ただ一人、苦しみ、痛み、生きてきたのです。
そのような立場にあった、この女性が、群集に囲まれるイエス様のところにやってきて、しかもその服の房に触れた。つまり、間違えると、イエス様に、「あなたが私を汚した」と叱責されるかもしれない。また、多くの人々の冷たい目線がこちらに向けられる。そのような思いの中、おびえ、震えていたのです。
今日の箇所では、この後、ヤイロの娘が亡くなったとの報告があり、実際にその娘は一度死んでいたとされます。ユダヤの律法では、死んだ者に触れることもまた「汚れた者」とされることでした。そのような意味で、この出血の止まらない女性、そして死んだ娘は、どちらもユダヤの律法では、汚れた存在であり、社会に入ること、その存在は認められないという状態、助けてもらうこともできない状態にあったのです。この二人の女性の存在を認め、癒され、回復させたのが、今日のイエス様のなされた出来事でした。
2: イエス様の言葉
今日は、このイエス様の癒しの業から、二つのことを学びたいと思います。一つは、イエス様の語られた言葉です。イエス様は、イエス様に触れた女性に向けて、【「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】(48)と言われました。イエス様は、この一言を語り掛けるために、この女性を探し出されたのでした。女性としては、もしかしたら叱責され、ひどい仕打ちをされるかも・・・と怯え、震えて出てきたのですが、そこで掛けられた言葉は「あなたの信仰があなたを救った」という言葉だったのです。この女性の信仰がどのようなものであったのかを考えますと、その信仰によって救いを得るほどに素晴らしいものであったのか・・・と考えさせられるのです。そのように考えてみますと、実際、救いを頂けるほどの信仰とはいったいどのようなものなのか、考えさせられます。日々、揺らいでいる不確定、不十分な人間の信仰に、神様の救いを得るほどのものがあるのでしょうか。
この女性が行ったこと、心にあったもの、それはただイエス様にすがりつくことだけでした。それこそ、【医者に全財産を使い果たした】(43)とあるように、この女性は、12年間、何もしなかったわけではないのです。社会では後ろ指を指されるような存在とされながらも、どうにかそこから回復できるように、色々なお医者さんのところに行き、なんとか生きてきた。何とかこの病が癒され、ユダヤの社会の一人として生きていきたいと願っていたのでしょう。しかし、女性の病は、自分の努力ではどうにもならなかったのです。「もうどうにもならない」。そのようなあきらめも心にはあったでしょう。ただ、それでも、この時、この女性は、小さな一歩をイエス様に向けて、歩き出したのです。そしてその服の房に触れました。「どうにか助けてください」とイエス様にすがりついた。イエス様は、この女性の姿、そしてその思いを受け止められたのです。そして、イエス様は【「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】(48)と言われたのです。
「あなたの信仰があなたを救った」。このイエス様の言葉は、この女性の心の内がどうであるということではなく、ただ「あなたは生きている価値がある。あなたは汚れた者ではなく、差別されるべき者でもない。神様は、あなたの存在を喜ばれている。」と、この女性の存在を肯定し、認めた言葉ということができるでしょう。イエス様は、群集の中で怯え、震える女性に対して、「あなたは、ここにいていいのだ」と、「あなたはこの社会に生きていいのだ」「あなたの存在は決してだれかを汚すものではない」と教えてくださっているのです。この女性は、「助けて欲しい、どうにか救い出して下さい」と願い求め、イエス様へと、小さな一歩を歩き出したのです。この女性の信仰は、その一歩にあるのでしょう。「イエス様、助けてください」と願い求めた。その心にあるのです。イエス様は、その信仰を受け留めてくださったのです。
このイエス様の言葉は、今、私たちにも向けられています。皆さんは自分の存在を認めることが出来ているでしょうか。その存在が神様によって喜ばれている、求められていると思うことができているでしょうか。私たちは、この世において様々な困難に出会います。そのような時、まず「イエス様、助けてください」と願い求めたいと思うのです。私たちが求める時、イエス様は、必ず救い出してくださいます。小さな小さな叫び、小さな声、小さな一歩を、イエス・キリストは、必ず聞き、受け留めてくださるのです。そして、イエス様は、この女性に言われたように「あなたの信仰があなたを救った」と、「あなたの存在を神様が認め、喜んでくださっている」「神様は、あなたを愛している」と、そして「私はあなたと共にいる」と教えてくださるのです。
イエス様は、このあと、娘が亡くなったという報告を受けたヤイロには、このように言います。【「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」】(50)ヤイロは娘の死を突き付けられ、死の闇に飲み込まれていきました。もうイエス様に頼ること自体が意味がないと、諦め、絶望したのです。そのヤイロにイエス様は「ただ信じなさい。」と言われたのです。
今日は2023年最後の礼拝となりますが、今年を振り返るときに、皆さんにとってはどのような一年であったでしょうか。それぞれ、良いこともあれば悪いこともあったでしょう。嬉しいこともあれば、悲しいこともあったでしょう。世界を見渡すと、ウクライナの戦争は終わることはなく、またガザ地区においては、イスラエルとハマスの戦争が起こってしまいました。それだけではないでしょう。様々な場所で紛争が起こり、また、地球の環境も現在は、温暖化から沸騰化と言われるほどになりました。この教会で考えれば、2023年1月には教会組織70周年を迎え、新たな一歩を踏み出す時となりました。皆さんにとっては、どのような一年であったでしょうか。
イエス様は、絶望する者、それこそ死という絶望に飲み込まれていく者に、「ただ信じなさい」と、「私があなたと共にいる」「私はこの世に勝っている」「私が道であり、真理であり、命である」「私が十字架で死に、復活の命を受けた者である」「新しい命を受けて生きていきましょう」と、語り掛けてくださるのです。死という絶望を前に、ヤイロは諦めました。そのヤイロに、「私を信じなさい」と、そこに希望があることを教えられたのです。私たちは、この死を越えて新しい命を造られた方、主イエス・キリストの言葉を、ただ信じたいと思うのです。
3: 手を差し伸べてくださる方
今日、学びたいもう一つのことは、この場面でイエス様が二人の女性と触れたということです。 この出血の止まらない女性と、会堂長ヤイロの娘は、どちらもユダヤの律法では触れてはいけない存在でした。そのような者にイエス様は手を差し伸べてくださったのです。この二人とイエス様の触れ方は全く違います。出血の止まらない女性の方は、隠れながら、それでも自分から、イエス様に触れていきました。それに対して、ヤイロの娘は、もはや一度死に飲み込まれた中で、イエス様の方から手を取り、触れてくださったのでした。イエス様は、「助けて欲しい」と願う者が触れることを許され、また、もはや死に飲み込まれ、触れることが出来なくなった者の手を取り、触れてくださるのです。それこそ、どのような立場にある者でも、どのような形であっても、イエス様はその隣に、必ず来てくださるということなのです。「汚れた」とされる人に触れるということは、ユダヤでは、その者も「汚れた者」とされていました。イエス様は「汚れた者」となられた、なってくださるのです。つまり、イエス様は、苦しむ者と同じだけの痛み、苦しみを共に背負ってくださり、共に歩いてくださっているということなのです。イエス様は、求める者に応えてくださり、死に飲みこまれ、求めることすらできない者の隣まで来てくださる。これがイエス様が共にいてくださるということです。自らが傷つき、痛み、苦しみ、それでも、私たちの隣に居続けてくださる。ここに本当の癒し、救いの御業が起こされていくのです。
イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない」「ただ信じなさい」と言い、私たちの存在を認め、受け入れ、そして手を差し伸べて、共に生きる方となってくださった。ここにキリストによる神の愛が示されたのです。
4: イエス様にすがりつく
先日、読んだ本の中には、「この世界はすべての人が諦めてしまっている。すべての人が挫折したままである」という言葉がありました。確かに、この世はもう「諦めた世界」となっているのではないかと考えさせられました。世界の環境は破壊され、温暖化と言われてきた状態から、沸騰化と言われるようになりました。日本は、少子高齢化となり、人口もこれから減少していく。誰が誰を支えるのか。先送りにしてきた日本の借金はどんどんと増え、どうすることもできない状態になっているのです。そのような中、「もはや手がつけられない。諦めるしかないでしょう」と思っているのではないでしょうか。そして、また、教会は、この世界に平和が来ること、すべての人間がキリストの愛に触れ、喜び、笑顔で生きることが来ることを求めてきました。今も求めています。ただ、なかなか、平和が来ない。神の国が到来しないと思う中、挫折して、もはや立ち上がる気力もなくなってしまっていないか。教会は、キリストを伝えることに限界を感じて、挫折し、諦めてしまっているのではないでしょうか。
今日の箇所では最初にヤイロがイエス様の前に来てひれ伏し、「助けてください」と願いました。そして次に出血の止まらない女性がイエス様にすがりついて、癒しを求め、その服の房に触れたのです。この二人は、もはや自分たちではどうすることもできない、という現実に向き合っていました。自分は無力である。自分でできることはもう何もない。目の前に広がるのは苦しみ、痛み、絶望でしかない。二人とも、そのような中にいたのです。そのような二人が、イエス様の前にひれ伏し、「助けてください」と願ったのです。この二人は、癒されたからイエス様を信じたのではないのです。ただただ一歩イエス様に向かって歩いた。「助けて欲しい」と願い、祈り、求め、すがりついたのです。このことが奇跡を起こしたのです。この一歩が、イエス・キリストによる、新しい人生の始まりです。このすがりつく一歩によって、二人は、イエス様から、新しく生きる命を与えられ、新しく生きる道を示されたのです。
イエス様は私たちに「ただ信じなさい」と語り掛けてくださっているのです。「諦めずに祈りなさい」。「『助けて』と願えば、神様が必ず助けてくださる」。「必ず私が、あなたと共に生きる」と語ってくださり、手を差し伸べてくださるのです。私たちは、今、この神様の助けが必ずあるということを信じましょう。そしてその道を一歩歩き出しましょう。イエス様にすがりついて、何度でも「助けて」と叫び求めていきたいと思います。明日から新しい一年が始まります。この新しい一年、何があったとしても。必ず神様が私たちを助けてくださるということを信じて、歩んでいきましょう。(笠井元)