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2024.1.17 「救いの言葉を注意して聞く」 ヘブライ人への手紙2:1-4

 

1:  十字架 敗北のしるし

 ヘブライ人への手紙は1章でイエス・キリストを賛美することから始まっています。(ヘブライ1:2-3)2章では「押し流されないように・・・」と私たちの生き方についての話と変わります。【わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。】(1)と教え、「聞くこと」、「より一層注意をすること」が求められています。ボンヘッファーは「聞くこと」を奉仕の一つとして挙げています。「注意して聞く」ときに、私たちには多くの新しい発見や恵みを頂くことができるのではないかと思います。

ここでの「聞いたこと」というのは、「イエスの十字架の上での死」を意味しています。イエス様の十字架の聞き方に注意するように教えています。もともと十字架はローマの重罪人に科す死刑の形で、この世の価値観で言えば「敗北のしるし」です。弟子たちはイエス様の十字架によって意気消沈したのです。(ルカ24:13~、ヨハネ20:19~)ヘブライ人への手紙の読者とされる人々は、「イエスが本当にキリストなら、彼の苦難の意味と目的は何か」「苦難のキリストが一体全体、何の役に立つというのか」という疑問を持っていたとされます。(T.G.ロング『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』p.64

 

2:  十字架 救い

 ここでは【わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。】(1)と教えます。現代聖書注解では「世界が御子をとおして創造され、また復興されるのを、私たちは見ることができない。けれども聞くことはできる」(T.G.ロング『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』p.67)と言います。実際に、今私たちは、キリストが神の右におられるということを見ることはできません。けれども、そのことを教える言葉を聞くことはできるのです。

 キリストは苦しまれた。この苦しみは何だったのか。十字架の死という屈辱的な死は何の意味をもっていたのか。聖書では、このキリストの苦しみ、十字架の死こそが、神様の愛の御業、私たちの痛みを共に受け入れる神の痛み、神の愛であることを教えるのです。

 私たちの人生には苦難があります。私たちに与えられている神様の救いは、このような苦しみがまったく無くなる人生を救いとするのではなく、神の御子イエス・キリストが、この苦しみを共に受ける方なられたことに救いを示されたのです。【事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。】(ヘブライ2:18)今日の箇所は、イエス・キリストの十字架に、敗北ではなく、神の救いを聞くようにと教えています。

 

 

3:   救いに無頓着でいる者

 2節の【天使たちを通して語られた言葉】(2)は律法のことを意味します。イスラエルの民は、神の宝の民として顧みられ、エジプトから救い出され、神様の救いを受け取った者として生きるために律法を与えられました。しかし、イスラエルの民は、神様が与えてくださった救いの出来事を忘れ、何度も何度も神様を裏切っていったのでした。そのうえで、3節では、新しい律法として与えられた、イエス・キリストの救いの業に無頓着でいいのだろうかと教えます。

 前回にお話しましたが、このときのヘブライ人への手紙を最初に受け取り、読んだ人たちは、「疲れていた」とされます。礼拝をすることに、イエスを主とすることに、どれほど信じても、変わらないこの世に、神に仕え、この世に仕えることに、疲れていた、まさに無頓着になってしまっていたのです。私たちは聖書を読むときに、そこから何を得ているのでしょうか。聖書は自己啓発書でも名言集でもありません。聖書は、私たちが一日一日を喜んで生きるための神様の生きた言葉です。神様の御言葉を心を開いて、聞いていきたいと思います。

 

4:   繋げられてきた言葉

この救いについて、ここでは、【主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され】(3)たと教えます。救いの出来事は、まずイエス様によって語られました。エマオの途上において、意気消沈した弟子たちのところにイエス様は来られ、新しく生きる命を注がれたのです。そして、イエス様の言葉に力づけられた者が、その救いを確かなものとして語り繋げてきたのです。そこから何代も何代も語り伝え、信仰として繋げられてきました。私たちは、この繋げられてきた福音を聞いているのです。この福音の言葉を私たちもまた繋げていきたいと思います。

 

5:  神が証しする救いを見る

 

4節では、この救いの御業を神様が証しされたとします。神様が「しるし」「不思議な業」「さまざまな奇跡」「聖霊の賜物」というものを通して、証ししてくださっている救いの御業を、私たちはどこに見ることができるでしょうか。私たちは、今、自分の生きるこの日々の生活において、苦しい時にこそ、神様の「しるし」「聖霊の賜物」によって証しされている救いを見ることができるのではないでしょうか。私たちは、隣に主イエス・キリストが共に苦しんでおられるということを見ていきたいと思います。苦しい時にこそ、そこにイエス・キリストの十字架を見出していきたいと思います。(笠井元)