1: 神が顧みてくださっている
ヘブライ人への手紙では、1章から御子の栄光について語ってきました。「御子は天使たちよりも優れた者となられた」ともあります。2章5節からは「御子がわずかの間、天使たちよりも低い者とされた」と言います。6節途中からの言葉は、詩編8章の言葉を引用したとされます。(詩編8:5-7)詩編8章の言葉は、神様が人間を顧みてくださったこと、その存在は「神に僅かに劣るもの」とするのです。
今日はまず詩編から、私たち自身の存在について考えてみたいと思います。私たちの存在価値は、神様が私たちを御心に留め、顧みてくださったというところにあります。私たちが何かができる、何かを持っているということを越えて、ただ、神様が私たちを顧みてくださったのです。私たち一人ひとりのことを、神様が覚えていてくださっているのです。
今、世界において、多くの争いが起こっています。その根っこには、自分の存在価値がわからない、隣の人の存在価値がわからない・・・と、お互いの存在価値を見失っていることにもあるのではないでしょうか。私たちは、自分も、また隣にいる一人ひとりが、神様に覚えられ、祈られている存在であるということを覚えたいと思います。
2: 「わずかの間」 時間の中に来られた方
詩編8章では人間の存在の大切さを語ります。これに対して、ヘブライ書2:6からの言葉では、「人の子」としてイエス・キリストを指しており、しかも、その存在は、天使たちよりもわずかの間ではありますが、低くされたことを語るのです。
イエス様は低くされた。このことを14節からはこのように言います。【ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。】(2:14-15)イエス様は人間と同じ肉体をもってこの世に来られたのです。
イエス様は「わずかの間」低い者とされたのです。「わずかの間」という言葉から、神の御子として、時間も空間も超えて存在されている方が、時間、空間の中に来られたということを学びたいと思います。神の御子が時間という制限のあるところに来られた。歴史の中に来られたことを意味します。同時に、生まれて死ぬという、限界のある命の中で生きている人間の命を生きたということでもあるのでしょう。私たちは誰もが生きて、死にます。成長し衰えていくのです。神の子が時間に制限されるということは、人間の様々な思い、死への恐怖や、肉体の衰え、疲れなど、その心の動きのすべてを知って下さったということもできるのだと思います。
3: 低くされた方
イエス様は低くされたのです。私たちは自分の弱さ、この混沌とした世に嘆くことがあるかもしれません。しかし、そこまでイエス様が降りてきてくださったということを覚えたいと思います。日曜日のCSでサマリアの女性に出会うイエス様の姿を学びました。サマリアの社会でも隠れて水を汲みにくるような女性に出会うところまでイエス様は来てくださったのです。イエス様はどこまでも来てくださるのです。
7節からは【あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。】(7-8)と教えます。2章では、「御子は低くされたが、そこに栄光と栄誉を与えられた」と教えるのです。
4: 開かれた心で見る
8節では、神様は【すべてのものを、その足の下に従わせられた。】(2:8a)と言いますが続けて、【しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。】(2:8b)と続きます。私たちがこの世界を人間の目で見る時に、この世界が神様に従っているようには到底思えない混沌とした状態にあるのです。イエス様が低い者とされた。そこに神の栄光と栄誉の冠を授けられた方、救いの御子を見る。それは心が開かれた中で見えるのです。
このことをわかりやすく表しているのが、先週も話しましたが、ルカによる福音書で語られている「エマオの途上」にある弟子たちの姿です。(ルカ24:29-32)弟子たちは、イエス様のパン裂き、祈り、賛美によって目が開かれたのでした。目を開いてくださる方、復活のイエスとの出会いです。
イエス様が死に、苦しまれ、低い者とされることは、神の恵みであり、すべての人のためになされた出来事です。イエス・キリストが低くされたことに、神様の恵み、神様の栄光を見たいと思うのです。そのために、復活の主イエス・キリストに出会うことで、心を開かれた者とされていきたいと思います。(笠井元)