イエスについて言った2人の男性に「来なさい。そうすれば分かる」とイエス様は言われます。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た」とあります。この単純な描写は想像力を誘発する力強さを持つ。
1.イエスとイエスの弟子による水のバプテスマ運動:ヨハネによる福音書を少し先に進んで、イエスとイエスの弟子たちによる水のバプテスマ運動に触れておきます。ヨハネ3:23-24を読んでみましょう。(朗読する)その箇所は、イエスとイエスの弟子たちが水のバプテスマを授けており、イエスはその活動の初期には、バプテスマのヨハネの弟子、弟分であったことを暗示しています。生き方の方向転換を促す運動です。
2.十二弟子の一人ヨハネ:バプテスマのヨハネは彼の弟子の二人と一緒にいました。一人はアンデレですが、もう一人の名は伏せられています。その人は十二弟子の一人のヨハネです。彼はヨハネ21:20によると、「イエスの愛しておられた弟子」でした。しかし、この福音書では一貫して十二弟子の一人ヨハネは自分を神あるいは神のみ子イエスの背後に、そして、また、復活の最初の証人としてのペトロの背後に退かせています。神あるいはイエス様の「ご栄光」の背後に自分を退かせています。
3.「来なさい。そうすれば分かる」:バプテスマのヨハネは弟子の二人と共にいる時、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言いま。今日の箇所でも「見る」と言う言葉が何度か登場します。「心の目」でイエスを「見て」「わきまえ、認識する」のです。今日、人の目だけを気にして、いや、人の目も気にせずに、自分の利益や地位を守ろうとする卑しい政治屋が横行しています。2月11日は「信教の自由を守る日」です。日本社会を記紀神話の「紀元節」に基礎づけ、この日を「建国記念の日」とすることは、天皇崇拝と軍国主義で多くの人々を傷つけた歴史に無反省な社会であることのしるしです。私たちは主イエスを「よく見て」、安易に「クニ」や「天皇」に自分を重ねない、真に主体的な人間でありたいものです。主イエスは言われます。「来なさい。そうすれば分かる。」
4.彼らはついて行って、イエスのもとに泊まった:信仰は、服従と切り離せません。ボンヘッファーは「信じる者だけが従順であり、従順な者だけが信じるということである。」と言っています。主の歩まれた十字架への道行に「ついて行くこと」(信従)です。
5.単純明快さの意味:ヨハネ福音書の弟子の召しは単純明快で、含みと言うか余白の多い叙述です。たぶん、いろいろなことを言いだしたり、書いたりすればキリがないのでしょう。信仰は極めて単純、イエスを自分の主として選び取り、従うことです。しかし、誰に信頼し、従うのか、カルトに引っ掛からないように主イエスの言葉、働き、人格を「良く見ること」が重要でしょう。(松見俊)