1: 信仰告白へ導く記事
今日の箇所は「5千人の供食」として、すべての福音書に記されている記事です。ただ、少しずつ違う部分があり、実際に、記者が感じたこと、伝えたいことも違ったのでしょう。ルカによる福音書は私たちに何を伝えたいのでしょうか。今日の記事は、「イエスとは何者なのか」・・・「イエスはキリスト、神の救い主だ」という、その間に置かれている記事であり、「イエスはキリスト、救い主」という信仰告白へと導く記事といえるのです。
2: 必ず迎え入れてくださる方
イエス様は12人を派遣されました。弟子たちは、イエス様の言われた通りに神の国を宣べ伝え、病気を癒すという働きをしてきたのです。そこから群衆は「イエスとは何者なのだろう」という思いを持つようになり、群集はイエス様一行の後を追いました。イエス様は、この人々を迎え入れ、神の国について語り、治療の必要な人々を癒されました。イエス様はどのようなときも、私たちを迎え入れてくださるのです。
3: 福音の恵みを止めることはできない
だんだんと日が傾きかけてきました。「人里離れた所」は、別の訳では「荒野」とされており、食べるものも何もない場所を意味していました。弟子たちが「一度解散しましょう」と考えるのは当然のことでしょう。ただ、そのような弟子たちの言葉をイエス様は受け入れられませんでした。解散を求めることは、イエス様が神の国を語ることを中断することになります。イエス様は神の国を語ることをやめられませんでした。福音の恵みを止めることはできないのです。
4: 十字架と復活を指し示す業
イエス様は、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えて、それらを裂かれ、それを弟子たちが群集に配りました。イエス様の祈り、パンを裂くという行為は、当時の教会では、イエス・キリストの十字架と復活を意味していました。「イエスとは何者なのか」。この問いに答える業として、イエス様は、パンを取り、天を仰ぎ、賛美の祈りをし、パンを裂かれたのです。つまり、イエス様は自らの命を懸けて死に、復活された方、この世のキリスト、救い主だと示されたのです。
5: 教会として聞く
イエス様は群衆を50人ずつのグループに分けられました。無秩序で無責任な集団を50人ずつに分けられた。無秩序な集まりを、秩序ある集まりとして分けられたのです。教会は、もともとは無秩序で、何を目的としているかもわからないような人間たちが、神様の恵みによって集められ、一つの目的「イエスを主と告白する」という者として集められたのです。私たちは教会という信仰共同体に神の国の幻を見るのです。いずれくる神様の愛の支配、神様の平和、神様による恵みを表す集まりとされていきましょう。(笠井元)