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2024.2.14 「教会を忠実に治められるイエス・キリスト」 ヘブライ人への手紙3:1-6

1: 天の召しにあずかっている

 私たちは、天の召しに与っている者として教会に集められています。(3:1)もともと教会に来るようになった理由は、様々なことがあると思います。様々な集まりに誘われてという人もいれば、純粋に神様を求めて礼拝にやってきたという人もいるでしょう。

ヨハネによる福音書15章にはこのようにあります。【あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。】(ヨハネ15:16

  ヘブライ書の最初の読者は、このことを忘れてしまっていました。だからこそ、ここでは【天の召しに与っている聖なる兄弟たち】(3:1)と、そのことを思い起こすために呼び掛けているのです。

 

2: 聖なる兄弟姉妹

 兄弟・姉妹は「聖なる者」の集まりです。ただ、それぞれの行いによって「聖」とされるのではありません。「私は教会に行くほどの人間ではない」と言われることがあります。また教会に来ている自分たちは聖なる者だと思ってはいないでしょうか。私たちは、私たち自身の何かによって「聖なる者」とされることはないのです。私たちはただ天の召しにあずかる者として、つまり、キリストによっての赦しという救いを頂いていることを信じる者として、教会の兄弟姉妹は「聖」とされるのです。

 

:  万物を造られたのは神である。

4節では【どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。】(3:4)と言います。神様はこの世界の創造者であり、私たちは被造物なのです。私たちが何をしようとも、命を一日でも長くすることはできません。私たちは日々、新しい命を神様から頂いて生かされているのです。「なぜ自分は生きているのか」「何のために生きているのか」という問いの答えは、被造物とされる私たちはただ「神様の栄光を現すために」となるのです。

コヘレト書ではこのように言います。【すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。】(コヘレト12:13

「神を畏れ、その戒めを守る」のです。私たちが心から生きていることを感じて、生きていることを喜べることは、決して滅びることもない、神様のために生きることなのです。

 

4: モーセとイエス

イエス様は【使者であり、大祭司である】(3:1)と言われます。イエス様に比較する者としてモーセがあげられます。モーセもまた、使者であり、大祭司である者であったとされます。

モーセはイスラエルがエジプトの奴隷の時に、そこから救い出すために、神様の使者として、遣わされました。もう一つの大祭司というと、どちらかというとモーセの兄アロンが大祭司となっていったとされますが、実際に神様とイスラエルの仲保者として働いたのはアロンではなくモーセでした。モーセはまさに使者であり、大祭司でもあったのです。

モーセは神の家、イスラエルの中で仕える者として、神の家、つまりイスラエルの民に忠実だったのです。(3:2,5)これに対して、イエス様は神様ご自身に忠実であり、神の家の中ではなく、神の家そのものを治める者として忠実であったとするのです。(3:2,6

教会は、イエス・キリストによって建てられ、イエス・キリストという使者、大祭司に治められているのです。

 

5: キリストに治められている

人間はだれもが弱さをもっており、神様を見失うこともあるのです。私たちが持つ信仰はとても不安定なものです。

この当時の教会の人々の信仰も揺れに揺れていたのでしょう。疲れた状態だったともありました。心が疲れ、イエス・キリストを主と告白することに疲れていたのです。そのような者たちに、ここでは、「あなたがたは大祭司であり、使者であるイエス様によって治められている」と、イエス様が神様と繋がっていて下さることを教えているのです。イエス・キリストと神様の関係は変わることはありません。私たちは、このイエス・キリストに治められているのです。

先日、幼稚園ではダビデのお話をしました。【彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」】(サムエル記上16:6-7

ダビデの優れていたところは、容姿ではなく、心となります。ただダビデの心が、「聖」であったとはとても思えません。もし言えるとするなら、間違いを認めることが出来たということでしょう。ダビデは間違いを指摘されたときに、自分の弱さを受け入れ、神様に立ち帰ったのです。

 

私たちができることは、そのような自分であることを認め、変わることのない、イエス・キリストに治められているというところに立つことでしょう。キリストの信仰は変わらない。キリストが使者として私たちを導き、大祭司として、私たちと神様を繋いでくださるのです。(笠井元)