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2024.2.25 「あなたにとってイエスとは何者か」(全文) ルカによる福音書9:18-27

1:  イエスの執り成しの祈り

今日の箇所は、ペトロがイエス様を「神からのメシアです」(ルカ9:20)と告白し、そのあとに、イエス様が自らの死と復活を予告され、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と語られた場面となります。この場面は、18節にあるように、イエス様が一人で祈られたことから始まります。ルカにyよる幼福音書では、イエス様が祈られる姿というものが数多く記されています。イエス様は、様々な大切な場面において祈られました。イエス様のバプテスマのときから始まり、十二人の弟子を選ばれた時、そして、主の祈りを教えられた時、また十字架の前のオリーブ山で、そして、最後に十字架の上でと、このすべてのときに、イエス様が祈られていたということが記されています。このイエス様の祈りは、最後の晩餐で、ペトロを励ますために、イエス様が【わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った】(ルカ22:32)と語られたように、また、十字架上では、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」】ルカ23:34)と祈られたように、励まし、執り成しという意味での祈りが多くありました。

このイエス様の励ましの祈り、執り成しの祈りは、今も続いているのです。私たちが日々生きている中にあって、イエス様が、私たちのために祈ってくださっていることを覚えたいと思います。イエス様に祈られている。私たちの人生は、イエス様の励ましと執り成しの祈りによって支えられているのです。このイエス様の執り成しの祈りが、今日の箇所においても、まず、なされます。この後に記されている、ペトロがイエス様を「神からのメシアです」(ルカ9:20)と告白していくことも、そして、イエス様が自らの死と復活を予告され、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と語られていくことも、・・・このイエス様の励ましと執り成しの中にあっての言葉であり、このイエス様の祈りによって、なされる出来事なのです。私たちは、イエス・キリストの祈りによって、イエスを主と告白し、そしてイエス・キリストに従って歩んでいくのです。

 

2:  あなたは私を何者だと思っているのか

このペトロの告白は、イエス様の質問から始まります。イエス様は、ここで、弟子たちに、「群集は、わたしのことを何者だといっているか」(ルカ9:18)と尋ねられました。この言葉は、イエス様が周りの人々から、自分がどのように評価されているのかといった。周りの目を気にして、弟子たちに尋ねた言葉ではないのです。イエス様は人々がどう言っているかを知りたかったというよりも、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ということを尋ねられたかったのでしょう。しかし、弟子たちは、そのことにまったく気づかず、「群衆はわたしをだれと言っているか」という、イエス様の問いにこう答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」(ルカ9:19弟子たちはこの答えを少し自慢げに言ったのではないかと思うのです。バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者のひとり。いずれにしてもユダヤ教の教師として、高い評価を受けた者を意味します。世の救い主、メシアがこの世に到来する。その前に現れる偉大なる預言者。イエス様は世の人々からそのように高く評価されているということです。弟子たちは、自分たちが信じてつき従って来た、主イエスが世の中からそのように高く評価されていることに対して、喜んでいたのだろうと思うのです。

 この弟子たちの考え方は、まさにこの社会の考え方、そのものでしょう。他者と自分を比較して、自分を評価するのです。私たちも、自分をこのような価値観で見ているのではないでしょうか。そして時に、優越感を得て、時に劣等感を持ってしまう。そして、そこから自分の存在価値、生きている意味を見出そうとしているのかもしれません。このような価値観こそ、この競争社会を生み出し、格差社会を生み出し、差別を生み出していると言ってもいいでしょう。この時、イエス様の弟子たちは、このような価値観でイエス様を見ていたのです。

そのような弟子たちにイエス様は続けて、このように尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9:20)イエス様は、弟子たちに、この世の評価ではなく、この世の価値観ではなく、あなたがた自分自身にとって、この私、イエスとは何者なのかと尋ねられたのです。こう問いかけられて、弟子たちは初めて、自分にとって主イエスとは誰なのか、主イエスに従うことが何を意味するのか、イエス様に従う自分の姿、その価値観を考えたのではないでしょうか。自分にとってイエスとは誰であるのか。この思いは、自分とイエス様との関係、そしてもう少し言えば、自分と他者、自分と神様の関係が、どのような関係なのかということを考えさせられるのです。

 

3:  ペトロの告白

「あなたにとって、私は何者なのか」。イエス様のこの問いに対して、ペトロは「神からのメシアです」(ルカ9:20)と答えます。「人々がどのように言おうが、預言者の中の最高の預言者だというある意味ですばらしい評価を下そうが、そのようなことは関係ない。私にとって、イエス様、あなたは神からのメシア、キリスト、救い主です。」ペトロはそのように告白したのでした。このペトロの信仰告白は、イエス様に向って、ペトロが、ペトロ自身の言葉で告白したのであり、ペトロは、この言葉を通して、自分とイエス様との関係をはっきりと表したのです。そして、この信仰告白は、イエス様の、執り成しの祈りの中でこそなされたものであり、ペトロは、イエス様の祈りに支えられ、イエス様と自分との関係を告白していったのでした。

そのことは、このペトロの告白の内実を見ることによって、理解していくことができるのです。ペトロは、このとき、イエス様に、「神からのメシアです。」と告白しました。ただ、では、このとき、ペトロが、イエス様が十字架の上で死に、三日後によみがえられる主、神の子であり、人であり、すべての人間の罪を贖うために来られた方であると、イエス様を完全に理解していたかといえば、それほど完全な信仰をもって「あなたは神からのメシアです」と告白したとは言い切れないのです。

現在の世界情勢、特に、イスラエルがハマスとの戦争を行っている中で、イスラエルという国について語ることは、とても気を付けなければならないでしょう。

イエス様の時代、当時、イスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていました。その中で、イスラエルの人々の中で、メシアというと、この世的力をもって、このイスラエルの国を再び建てあげる、ローマ帝国から救い出す、政治的な救い主、メシアのことを意味していたのです。イスラエルの人々は、そのような救い主である、メシアが現れ、ローマ帝国の支配下から打ち破り、再びイスラエルの国を建てあげる。そのような王様としての、メシア、救い主を待ち望んでいたのです。イスラエルの人々がそのようなメシアを待ち望んでいた。そして、それはイエス様の弟子たちも、同様であったでしょう。イエス様に招かれて弟子となった者が思い描く、メシアのイメージも、当時のイスラエルの人たちが考えていた、メシア、救い主に対するイメージも、さほど変わりはなかったのです。

だからこそ、イエス様は、このように考えている弟子たちに対して、直ぐその後に、御自身が多くの苦しみを受け、人々に捨てられ、殺されることを語ります。そのような仕方で救いを全うされるということ。主イエスの十字架の苦難と死とが、神様の救いの計画には必要不可欠であること。つまり、力を用いて人々を戦いに導き、力でもって相手を倒し、そのようにして偽りの平和を確立するというのではなく、十字架の苦難と死に至るまで御自身を低くし、その徹底的な神様への従順において、イエス様がメシア、キリストとなられるということを教えるのです。それ以外の方法では人々に救いはもたらされない。それ以外の方法でイエスはメシア、キリストではあり得ないということ。そのような意味を込めて、イエスは御自身の受難と復活の話をされたのです。

ただ、この時のペトロも、その当時の人々が考えていた意味でのメシア。つまり、力でもってイスラエルの国を再び建てあげる救い主を、自らのメシアと考えていたのであり、ペトロの告白は、ある意味、メシアというものを、正しく理解していない、正しく捉えていない中で、なされたものであったのです。そのような不十分な理解であり、不十分な告白であったとしても、イエス様が、祈り、執り成してくださる中で、その告白は、神様の前に差し出され、「良し」とされていったのです。

私たちの信仰、そしてその行為も言葉もまた、完全なものであるとは言えないと思うのです。私たちは不十分な者、欠けを持っている者です。しかし、そのような不十分なものでありながらも、このイエス様の執り成しの祈りによって、神様の前に差し出すことができるものとされているのです。イエス様のことを理解することも、しっかりと見ることもできていない。そのような私たちですが、そのような私たちのために、イエス・キリストはこの世に来られたのであり、そして、そのような私たちのために、十字架の上で、苦しまれたのです。この苦しまれたイエス・キリストの祈りが、今もまた、私たちへと向けられているのです。この十字架の上で、私たちのために、祈られていった祈りが、今も、祈り続けられている。私たちは、このイエス様の祈りによって、赦されている。神様に愛されている。神様の愛によって、生きている価値を与えられている。イエス様は、私たちに、「わたしはあなたを愛している。あなたは大切な存在だ」と教えてくださっているのです。

 

4:  自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい

そして、イエス様は【「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」】(ルカ9:23)と語らました。このイエス様の言葉を、私たちは、どのように受け止めることができるのでしょうか。この言葉から、私たちは十字架を担うというとが、どこか重たいものを背負わされた感じ・・・、自分の罪や、この世の困難や苦しみなど、そのようなものを、私たちが担っていかなくてはならない、と感じてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、ここで語られている自分の十字架を担うという意味は、もう少し違った意味で語られているのです。

自分の十字架を担うこと。それは、自分自身の能力や才能、知恵や力に頼って生きていくことを止め、ただただ神様に寄り頼むことを意味しているのです。神様に寄り頼むこと。確かに、その過程において、自分の弱さをしっかりと見つめていくこととなり、また、今ある困難を見つめる時ともなります。そのような意味で、重たいものを背負うこと、苦しいことに目を向けることとなるかもしれませんが・・・ただ、本来、十字架を担うということは、この神様に寄り頼んで歩むこと、そのこと自体を意味しているのです。私たちは、いつも、自分自身を中心に、自分自身に寄り頼み生きています。それが人間といったものです。そのような生き方を、捨て去り、神様に寄り頼んでいくこと。それは、自分自身の力によって、神様に向かうのではなく、イエス・キリストの執り成しによって、神様に信頼していくという意味でもあります。自分自身ではなく、神様に目を向けていくこと。そして、むしろ自分の無力さ、自分の弱さに目を向け、イエス・キリストの執り成しを受け取っていくこと。このことこそが、自分の十字架を担うということになるのです。私たちは、ペトロもそうであったように、神様の前にあって、どこまでも、不十分な理解しかできていない、不十分な者でしかないのです。しかし、そのような私たちのためにこそ、イエス・キリストが祈り、苦しみ、神様へと執り成してくださるのです。

私たちは、このイエス様をメシアと告白する者として、イエス様をキリスト、救い主と告白する者として、日々、自分の十字架を担っていきたいと思います。つまり、神様に寄り頼んで生きる者とされていきたいと思うのです。イエス・キリストの執り成しの祈りは、18節に【イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。】(ルカ9:18)と記されているように、イエス様が、一人で祈られている中にあって、共にいることが許されている。そのような祈りであったのです。この言葉は、一見すると、矛盾した言葉にも見えるのです。ただ、ここで、一人で祈られるイエス様と、共にいること。それは、イエス様の執り成しの祈りが、私たちとの、交わりの中にあって、なされているということを意味し、この言葉は、イエス様の執り成しの祈りを受け、そして神様に寄り頼む時に、私たちが、具体的にイエス様の祈りに支えられて、共に立っていることを表す言葉ともなるのです。

 

神様に委ねる時、私たちは、むしろ、神様に寄り頼む者として、そこから、具体的にこの世で生きる時に、隣人と共に生きること、自分を愛し、同じように隣人を愛することへと繋がっていくこととなるのです。キリストの恵みは、私たちのところで留まるような小さなものではありません。また、十字架を背負い、キリストに従うということは、ただ、神様と自分という関係に留まるものでもないのです。神様に寄り頼み生きる時、私たちは生き方を根本から変えられるのです。神様に寄り頼み生きる時、私たちは、自分が愛されていることと同時に、隣の人も同様に愛されていることを知るのです。そして、そのように生きる道へと歩みだすことをイエス様は祈られているのです。私たちは、このイエス・キリストの祈りを受けて、歩んでいきたいと思います。(笠井元)