現在はレント、イエス・キリストの十字架を覚える受難節の時を迎えています。また、今日はイエス・キリストの十字架の恵みを覚える主の晩餐式を行います。今日の聖書箇所は、出エジプト記の、神様の過ぎ越しの業の一場面となりますが、ここから、このレントを迎える中で、「備える」ということ、そして、主の晩餐式という礼典を行うことによる、「恵みを繋いでいく」ということを学んでいきたいと思います。
1: エジプトの奴隷イスラエル
当時、イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷という立場にありました。出エジプト記の2章ではこのようにあります。【イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。】(出エジプト記2:23-25)イスラエルの民はエジプトにおいて、奴隷という立場にあり、重労働を課せられていました。その中で苦しみ、嘆き、「助けてください」と、叫んだのです。この嘆きを神様は聞かれ、イスラエルの民に救いの御業を起こされていくのです。この出エジプト記2章の後、3章から、イスラエルの救いの御業が始まります。まずはイスラエルの民をエジプトから、導き出す者としてモーセが選びだされました。そして、そのモーセと、兄アロンが何度もエジプトの王ファラオの所に行き、イスラエルの民を解放するようにと、訴えていくのです。しかし、ファラオは、そのモーセとアロンの言葉に耳を傾けることはありませんでした。そのため、神様は、ファラオの頑なな心が変えられるために、モーセとアロンを送り、多くの災いを起こしていきました。川は血に変わり、カエル、ブヨ、アブなどが大量発生し、エジプトでは人間から家畜に至るまで多くの病気にもなっていったのです。そして雹が降り、イナゴがやってきて、多くの作物が台無しになってしまったのです。ただ、それでもファラオの心は変わることがありませんでした。
そのような中、11章から最後の災いとして、エジプト全土の初子が撃たれるという災いが起こされると教えるのです。11章4節からはこのようにあります。【モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』」】(出エジプト記11:4-6)このエジプト全土の初子が撃たれるという災いをもって、イスラエルの人々はエジプトの奴隷という立場から解放されていくことになるのです。
今日の箇所は、そのようにエジプト全土の初子が撃たれる中で、イスラエルの民に災いが及ばないため、そのような「滅ぼす者」が、イスラエルの家に入って撃つことがないために、モーセがイスラエルの長老を通して、イスラエルの民全体に、鴨居と入口の二本の柱に羊の血を塗るようにと教えていく場面となるのです。
2: 過ぎ越しの準備 備える
今日の箇所では、最後の災いから、イスラエルの民が逃れるための神様が「過ぎ越される」ための準備について、神様がモーセに、モーセがイスラエルに伝えていくのです。今日の箇所は、過ぎ越しのための準備、解放のための準備の時であると言うことができるでしょう。ここでは準備、備えの方法が教えられます。ここからは解放のためには備えが必要だということを教えられるのです。今日の前12章3節では、神様はモーセとアロンに【12:3 イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。】(12:3)と教えます。そして今日の箇所は、その神様の語られた言葉をモーセがイスラエルの長老へと伝えていくのです。この時をもって、初めて神様はモーセを通して、イスラエルの民に語りかけたのです。これまでも、災いの時に、エジプトとイスラエルを区別されることはありました。しかし、それらの場面で神様はイスラエルに語りかけ、災いがイスラエルのうちに起こされないように、備えることを教えられてはこなかったのです。そのうえで、今日のこの場面で、神様はイスラエルの民に、災いが及ばないように備えるように教えられたのです。
そして、最後27節後半からは【民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。】(12:27-28)とあるように、イスラエルの民は、この主の言葉を聞いて、その通りに行ったのです。ここに、ただ神様の御言葉を信じて行動したイスラエルの民の姿を見ることができるのです。イスラエルの民は、神様の言葉を聞き、そしてその災いから逃れるための備えを行ったのです。この姿は、ファラオの頑なさと対照的な姿ということができるでしょう。
神様は解放のために備えることを求められるのです。神様は、人間が解放されるために命をかけてまで働いてくださいます。そして、すべての人間を救い出すために、すべての人間に手を差し出してくださっているのです。私たちは、この差し出された神様の手を受け、握りしめていくのでしょうか。人間はその差し出してくださる神の手を握りしめることも、振り払うことも、神様の救いを受け入れることも、受け入れない道を選ぶこともできるのです。いわゆる自由意思というものが人間には与えられている。人間には、その神様の救いを受け取る自由も、受け取らない自由もあるのです。そのうえで、今日の箇所では、その神様の差し出して下さっている、救いの御業を受け取るイスラエルの民の姿があります。そしてイスラエルの民は、神様の恵みを受け取る準備を始めます。ここから、私たちは、神様の救いを受け取るために、備えること、心を整え、神様の御言葉に耳を傾けることの大切さを教えられるのです。
3: 命をもってなされた備え
イスラエルの民は、神様の言葉通り、鴨居と二本の柱に羊の血を塗ったのでした。この時、この血を見て、滅ぼす者が過ぎ越すとされた。この血によって、神様の災いを受けることから逃れる者とされたのです。神様は、この救いの備えとして、ただ印として鴨居に血を塗ることを求めたのではないのです。そこには動物の血、つまり命が求められたのです。過ぎ越しという救いと解放のためには命を必要としたのです。このことは、神様による解放、救いのためには命が必要だと教えるのです。この命による備えによって、本来受けるべき災い「初子の死」から逃れることができた。つまり、イスラエルの民の初子の命ではなく、別の命の死によって、イスラエルの民は守られ、そこから解放への道を得たのです。
私たち、キリスト教では、この人間の救いのために、神の子イエス・キリストが人間となり、死なれたとします。本来人間が受けるべき災いを、イエス・キリストが十字架の上において受けてくださった。これが、イエス・キリストの十字架なのです。私たちが救いを頂くために準備をすること。その準備のための命はすでにイエス・キリストの十字架において備えられています。私たちがなすべき準備は、そのキリストの十字架を見上げ、その血に与り、受け入れていくこと。そしてその命をかけて救いの備えをしてくださっている、神様の御業を信じて受け入れていくことにあるのでしょう。
4: 信仰の継承
【あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。】(出エジプト記12:24-27)
この言葉は、この儀式には意味があるということ、そしてこの儀式は意味を知らずに行うのではなく、きちんとした理解と信仰のうえに行うようにと教えているのです。この出来事から、何代も時代が変わる中でも、この過ぎ越しの儀式が何のためにあったのか、それを忘れることなく、覚えていなさい。それは「主が救いのために、エジプトを撃たれ、しかしまたイスラエルの民は過ぎこされたことを覚えるためである」と教えるのです。
つまり、神様が命をもって、イスラエルの民の命を解放してくださったという恵みを、何代続いても忘れることのないようにと教えているのです。この世では、多くのものが、時代が変わることによって、その内容も、方法も、そして意味も変わっていくことを教えられます。「なぜ・・・こんなことをするのだろう」という疑問はどこでも起こるのです。自分にとって当たり前のことも、知らない人にとっては「なぜなのだろうか」ということになります。
幼稚園では、子どもたちはいろいろな質問をしてきます。「なんで、お祈りをするときは目をつぶるのか、手を合わせるのか」「なぜ静かにしなければならないのか」、「なんで」「どうして」といろいろなことを聞いてきます。ときどき答えに詰まる時もあります。ここでは、子どもが「この儀式にはどういう意味があるのですか」(26)と聞いた時に、「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」(27)と、このように答えなさいと言われているのです。
最初に言いましたが、今は、レントという時、イエス・キリストの十字架を覚える時を迎えています。私たちはこの時に、まずイエス・キリストの十字架、そしてその痛みと苦しみを覚えたいと思います。そして今日は特に、第一週ということで、主の晩餐式もあります。この主の晩餐式は、バプテストが大切にしている二つの礼典、バプテスマと主の晩餐式の一つとなります。私たちは、このレントの時、主の十字架の痛みを覚えたいと思います。そして、これから行う、主の晩餐式を通して、その血と肉による十字架の苦しみと死、そしてその死を越えて救いを与えてくださったキリストの復活を覚え、またこの主の晩餐式を続けることで、その信仰を繋いでいきたいと思うのです。この礼典、業は信仰を繋いでいくのです。それこそ自分自身の中で、信仰を確認し、新しい信仰を頂く時ともなりますし、「このことは何のためにしているのだろう」というところから、私たちが頂いている信仰を、これからの世代へと繋げていくことになるのです。
わたしたちはそれぞれ、一人の信仰者であり、そのうえで、バプテスト教会という教会の一員でもあります。私たちはまず一人の信仰者として、救いの喜びと、人生における救いを受け取りたいと思うのです。そして、そのうえで、その救いの意味、生き方を共に受け取っていきたいと思います。それは個人としてでもあり、また教会として、バプテスト教会の教会員として、信仰を頂いていきましょう。私たちが継承するべき信仰とは何なのか、バプテストとは何のか、個人として、また教会員としてもう一度自分に問いなおしてみたいと思います。(笠井元)