1: エジプトの奴隷イスラエル
イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷という立場にあり、重労働を課せられ、嘆き、叫んだのです。その嘆きを神様は聞いてくださり、イスラエルの人々に救いの御業を起こされていくのです。モーセと、兄アロンが何度もエジプトの王ファラオの所に行き、イスラエルの人々を解放するように訴えていくのです。しかし、ファラオはその言葉に耳を傾けることはありませんでした。
11章から最後の災いとして、エジプト全土の初子が撃たれるという災いが起こされると教えるのです。今日の箇所ではエジプト全土の初子が撃たれる中で、イスラエルの民に災いが及ばないため、鴨居と入口の二本の柱に羊の血を塗るようにと教えていくのです。
2: 過ぎ越しの準備 備える
ここではこの最後の災いからイスラエルが逃れるための準備について、モーセがイスラエルに伝えていくのです。イスラエルの民は、この主の言葉を聞いて、その通りに行ったのです。ここに神様の御言葉を信じて行動したイスラエルの民の姿を見ることができます。
神様は、人間が解放されるために命をかけて働いてくださいます。すべての人間に手を差し伸べてくださっているのです。私たちは、この差し出された神様の手を受け、握りしめていくのでしょうか。私たちは、神様の救いを受け取るために、備えること、心を整え、神様の御言葉に耳を傾けることの大切さを教えられるのです。
3: 命をもってなされた備え
イスラエルの民は、神様の言葉通り、鴨居と二本の柱に羊の血を塗ったのです。この血を見て、滅ぼす者が過ぎ越すとされました。神様は救いの備えとして、ただ印として鴨居に血を塗ることを求めたのではなく、そこには命が求められたのです。キリスト教では、この人間の救いのために、神の子イエス・キリストが人間となり、死なれたとします。本来人間が受けるべき災いを、イエス・キリストが十字架の上において受けてくださったのです。私たちがなすべき準備は、このキリストの十字架の血に与り受け入れていくことにあるのでしょう。
4: 信仰の継承
24節からは、儀式には意味があるということ、そしてその儀式は意味を知らずに行うのではなく、きちんとした信仰のうえに儀式を行うようにと教えているのです。今は、レント、イエス・キリストの十字架を覚える時を迎えています。私たちは、このレントの時、主の十字架の痛みを覚えたいと思います。そして、これから行う主の晩餐式の行為を通して、その血と肉による十字架の苦しみと死、そしてその死を越えて救いを与えてくださったキリストの復活を覚えたいと思います。(笠井元)