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2024.3.10 「神礼拝の劇的転換」(全文) ヨハネによる福音書2:13-22

ヨハネ福音書の2章13節以下には、主イエスがエルサレムの神殿でひと仕事して、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」出来事が描かれています。

 

1.「カタストロフ」=大団円、劇的転換

 イエスが両替人の台を「倒した」ということからの着想です。ヨハネ福音書では「ひっくり返す」は「アナストレフォー」(anastrephō)というギリシヤ語が用いられていますが、マルコによる福音書の平行記事では、「カタストレフォー」(katastrephō)です。皆さんは「タカストロフ」という言葉をお存知でしょうか。元々は、劇場用語ですが、物語が最後にドンデン返しを迎え、舞台が暗転することを指します。「大団円」と翻訳されます、まあ、一般では、「カトストロフ」は「破局」とか「破滅」と翻訳されます。わたしたちはときどき、世の中がひっくりかえるような出来事に出会います。わたしは、1978年から3年半ほどスイスに留学する機会が与えられました。当時はいわゆる「オイルショック」の時代でありまして、世の中がまさに、「ひっくりかえる」ような騒ぎを経験させられました。留学先のスイスのチューリッヒの夜は随分暗く、町角のポスターには「カタストロフ」という言葉が見受けられました。私たちの国ではトイレットペーパーが買いだめされました。ハワイ旅行に行ったお土産にトイレットペーパーを買って来たと言う笑えないニュースもありました。コロナウイルス感染予防のマスクの買いだめ、品切れの「走り」のようなものですね。テレビも夜の12時前には終わり、町のネオンも、たぶん、中洲の明かりも一斉に消えました。わたしの生活で言えば、いつも灯油を買っていた近くのガソリンスタンドが灯油を売ってくれず、驚き、呆れたことを思い出します。家庭の暖房よりも工場の機械を動かす方が大事だという発想に驚きました。自動車でガソリンを入れたり、灯油を買いに行くというだけでは信頼関係を結ぶまでの人間関係を築きえないのかという思いでした。まあ、名古屋という「よそ者」には厳しい伝統であるのかも知れません。何よりも、いわゆる「第一世界」と呼ばれる先進国の豊かさが南の国々の石油によって成り立っていることを思い起こし、私たちの社会の豊かさの土台が意外と脆いことを痛感しました。実はそれは今でもほとんど変わっていないことです。

 

 2.主イエスのエルサレム神殿での行為

イエスはエルサレム神殿に入り、「牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」たのですが、先ほど言いましたように、マルコ福音書のこの箇所では「ひっくりかえす」には「カタストロフ」の動詞形の「カタストレフォー」が用いられています。

 この出来事は、マタイ、マルコ、ルカ福音書では主イエスが十字架の死を経験した最後の一週間、いわゆる受難週の第二日目に起こったものとされています。しかし、イエスとはだれであったかを知る上でこの物語が極めて重要な出来事であると理解して、ヨハネ福音書は、イエスの生涯の最初にこの事件を置いたと解釈するのが普通でしょう。日本でいえば、国会議事堂か伊勢神宮で何か事を起こしたような感じなのです。こんなことをしたからには決してただで済むことではありません。他の福音書ではこの事件がイエスの十字架死の直接の原因になったと暗示していますので、やはり、十字架の死のもっとも近い日々にこの出来事が位置づけられるのが自然です。

過越の祭りについては皆さんすでにご承知の方も多いと思います。ユダヤ人のお正月の祭りで、日本のカレンダーで言えば3月の末から4月位に祝われます。彼等の先祖たちがエジプトの奴隷状態から解放された歴史を学び、神の救いに感謝する祭りです。イエスさまはエルサレムの神殿に入って行かれました。そこには牛や羊や鳩の鳴き声がしていました。昔は自分の家畜の中から捧げ物をしたのですが、長い道程をエルサレムまで連れてまいりますと途中で傷ついたりしますので、エルサレムの町に入ってお金で買えるようになっていたのです。牛や羊を買うことのできない貧しいものは鳩を捧げることが赦されていました。神殿の中庭には約3000頭の家畜が繋がれ、外の価格の10数倍の値段であったと言われています。

そこに、両替人のお金の音が聞こえてきます。ユダヤは当時ロ-マ帝国の支配下にあり、コインにはロ-マ皇帝の肖像が刻まれていました。これを献金として捧げることは不浄なこととされていました。人々は献金用の特別なお金をエルサレムで両替することが義務づけられていたのでした。過越の祭りの際ユダヤ人は半シケル、つまり、銀5グラムの献金を捧げますが、両替には大きな手数料を取られたと言います。日本でもそうですが、ここで、宗教が金儲けと結び付いていたのです。

今日、政治も経済も従来のシステムが巧く働かなくなってきています。物価高と異常にも見える株価高騰、いわゆる「日本」売りの現象です。まあ、それでもエンタメにうつつをを抜かして、一見平然としているような不気味な社会です。ある時期、「家庭崩壊」そして「学級崩壊」などと言われましたが、今では「人間崩壊」、「日本社会崩壊」の兆しがないわけではありません。人間同士の関係の土台、社会の土台がひっくりかえされたような感じなのです。

 

 3.神礼拝の劇的転換 

神殿とはいったい何でしょうか。主イエスは「わたしの父の家」と呼んでいますが、神と人との出会いの場であるといってよいでしょう。ユダヤ人にかぎらず、人は神との面接のために様々な神殿を建て、様々な像を安置してきました。このエルサレム神殿を建てるのに46年もかかったと言われていますが、イエスが生まれる前からヘロデ大王が建設を開始し、イエスの時代にもまだ建設中でありました。イエスは「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒した」と言われています。さて、私たちはこの出来事から何を学ぶでしょうか。いつもはにこにこしているクリスチャンも肝心な所では怒らねばならないというようなことでしょうか。教会はバザ-などなるべくお金を扱うプログラムを避けた方がよいというようなことでしょうか。この物語は「宮清め」、クレンジング テンプルと呼ばれていますが、教会を倫理的に清める必要を学ぶべきでしょうか。決してそうではありません。ここでは単に何かの汚れを落とすというようなことではなく、決定的な神礼拝の転換、神礼拝のドンデン返しが語られているのではないでしょうか。もし、私たちが何か良いもの、良い業を捧げて神に出会おうとするならば、また、宗教とは、何か人間の力によって神を動かし、幸福を引き寄せることであるならば、そこには必ず何か特殊な宗教者や魔術師などが登場し、「金儲け」と結び付くのではないでしょうか。今日、宗教というものが問われていますが、それは宗教が金儲けに利用できる、宗教がビジネスになるということを抜け目なく発見した人がいるからでしょう。大川隆法の「幸福の科学」しかり、福永法源の「法の華」しかりです。統一協会の問題は1970年代からカルトとして問題にされ続けてきましたが、昨今ではそれが日本の保守政治と結託していたことが問われています。もし、信仰が、人間の弱みに付け込んで説かれるならば、もし、信仰が、人間の努力や業によって神を動かす術であるならば、それに付け込む人間が現れ、人間を支配し、奴隷にしようとする歪みが起こるのではないでしょうか。

しかし、本当の信仰は人間が神を操るのではなく、神のみ心を求め、人間自身が自由に変えられる所にあるのではないでしょうか。主イエスは十字架の死を目の前に祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。ここに、神を操る宗教から、神に従い自分自身が変えられる信仰が見事に語られています。

イエスが追い払ったのは単に牛や羊や鳩ではありません。イエスが覆したのは単に両替人の台ではありません。神を礼拝する在り方を決定的に覆したのです。人が下から神を動かすのではない、人が下から神に昇格するのではない、神ご自身が下に降り、身を低くされ、人となり、神のみ心を明らかにされたのです。神と人が出会う場所はエルサレムの神殿やきらびやかな宗教施設ではなく、イエス・キリストというお方なのです。ここでは単なる礼拝場所を清めるという以上に、礼拝の劇的転換、イエスにおける神礼拝が描かれているのです。

 

4.主イエスの「熱意」

21節にはイエスの言われる神殿とは御自分の体のことだったのであると言われます。私たちはイエスにおいてまことの神に出会い、人間を愛する神に出会うことができるのです。そしてさらに、イエスにおいてまことの人とはどのような人かを知ることができ、神から愛され、神に仕える人に出会えるのです。イエスの神を思う熱心がイエス自身を食い尽くすとありますが(17節)。今朝は受難節の、第四主日です。主イエスの受難をヨハネはヘブライ語聖書詩編69:10を引用して解釈します。69:810を読みます。「わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する情熱が/わたしを食い尽くします、」「商売人の家」と化した神殿をごらんになり、主イエスは、まことの神、まことの人間、真の礼拝を目指して、多少、暴走気味にも見える行動をなさいました。そして、19節の過激なことを語られたと言います。「この神殿を壊してみよ。(実際紀元70年ユダヤ戦争によって神殿は崩壊してしまいました)三日で建て直してみせる。」そして「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」と弟子たちは後になって気が付いたと言うのです。イエスの神と人への愛の深さが、そのあまりの情熱が自らの体と心を消耗させてしまう、十字架の死をもたらしました。しかし、イエスは3日目によみがらされ(22)、死を越えた命のありかが示され、礼拝の劇的転換がなされたのです。こうして、イエスの十字架と復活が、イエス様ご自身が神と人が出会う場なのです。

 

 5.場所エルサレムから自由になった神礼拝

 

ヨハネによる福音書のこの出来事から今日の出来事を少し考えてみましょう。現在、ウクライナにおけるロシアの侵略と背後で蠢く欧米との、暴力と暴力の悲惨な戦争に加え、更に、パレスティナのガザにおけるハマスとイスラエル軍の過酷な戦争の事実と報道に心を痛めています。葛藤の発端は首都エルサレムを中心にしたイスラエルが主張する領土への拘りとアバブ人の住民が住んでいる地域に無理やり建国し、国際法に違反して領土拡大、入植地の増やすイスラエルの問題です。いわゆる第一次シオニズム運動では欧米のユダヤ人がある程度パレスティナに移民したわけですが、その時はそれほど問題にならず、ユダヤ人とアバブ人は仲良く暮らしていたようです。また、ナチスによる600万人のユダヤ人虐殺の後、即罪の意味もあり、大量のユダヤ人の移住も予想されたので、エルサレムとパレスティナにこだわらず、アフリカのウガンダに移住しようとする試みもあったようです。エルサレムにこだわらない自由があれば、「聖地」などの言わずに、イエスの名による、イエスによる自由な人間とその生活、自由な神礼拝の道を歩むならば違う道もあったわけですし、事実あるのです。私の友人のナザレ生まれのアラブ人キリスト者はユダヤ人とも仲良くやっていると言っていました。ユダヤ人は「会堂」を全世界に建てて信仰生活を営んできた歴史もあります。イエス・キリストによる神礼拝の劇的転換を受け取る信仰は、この世界の何物かが絶対視されることを批判するとともに、あるいは特別な場所が「聖なる地」であるとされることも批判すると共に、悲しみや様々な問題、病や死に直面しても、また、八方塞がりのような現実に直面しても揺らぐことはない慰めを与えてくれるのです。イエスの十字架と復活によって明らかにされたことは、神は私たちの弱さ、あやまりを赦し、愛して下さっていることです。病や死は決して敗北ではなく、やがて、復活の勝利と生命に飲み込まれてしまうことです。神を思う熱意がイエスを燃焼させたこと、つまり十字架の死に至るまで、神を求め、私たちを愛して下さったことです。もし私たちがこのキリストを受けさえすれば私たちの生き方は揺らぐことがありません。しかし、もし、私たちの生活の根拠がこれ以外のところにあれば、例えば、お金であったり、会社であったり、健康であったり、偏差値であったり、そして「国家」であったり、それらは外面的にはどんなに強固で、豊かに見えても、それらに根ざす「信念」は必ず震われることでしょう。イエス・キリストにおいて人生のドンデン返しが起こらなければ、私たちの生活そのものがいつかドンデン返しを食うことになるのです。主イエスの名による礼拝と解放された自由人としての生き方を貫きましょう。(松見俊)