ヨハネ福音書2章13節以下には、主イエスがエルサレムの神殿でひと仕事して、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」出来事が描かれています。
1.「カタストロフ」=大団円、劇的転換
ヨハネ福音書では「ひっくり返す」は「アナストレフォー」(anastrephō)というギリシヤ語が用いられていますが、マルコによる福音書の平行記事では、「カタストレフォー」(katastrephō)です。「タカストロフ」は、劇場用語で、ドラマが最後にドンデン返しを迎え、舞台が暗転することを指します。「大団円」と翻訳されます、一般では、「カトストロフ」は「破局」とか「破滅」と翻訳されます。私は、1978年から3年半ほどスイスに留学する機会が与えられましたが当時はいわゆる「オイルショック」の時代でした。世の中がまさに、「ひっくりかえる」ような騒ぎを経験させられました。
2.主イエスのエルサレム神殿での行為
この出来事は、共観福音書では受難週の第二日目に起こったものとされています。しかし、イエスとはだれであったかを知る上でこの物語が極めて重要な出来事であると理解して、ヨハネ福音書は、イエスの生涯の最初にこの事件を置いたと解釈するのが普通でしょう。過越の祭りには多くの人がお祝いに参加します。エルサレム神殿では捧げものがなされますが、長い道程を旅しますと途中で傷ついたりしますので、エルサレムの町でお金で買いいれます。神殿の中庭には約3000頭の家畜が繋がれ、外の価格の10数倍の値段でした。
そこに、両替人のお金の音が聞こえてきます。コインにはロ-マ皇帝の肖像が刻まれてたので不浄とされ、献金用の特別なコインを両替することが義務づけられていました。過越の祭りの際ユダヤ人は半シケル、つまり、銀5グラムの献金を捧げますが、両替には大きな手数料を取られたと言います。日本でもそうですが、ここで、宗教が金儲けと結び付いていたのです。
3.神礼拝の劇的転換
イエスは「わたしの父の家」と呼んでいますが、神殿は神と人との出会いの場です。このエルサレム神殿を建てるのに46年もかかったと言われています。この物語は「宮清め」とも呼ばれていますが、単なる神殿を「清める」ことではなく、礼拝の劇的転換がなされたのです。私たちが何か良いもの、良い業を捧げて神に出会おうとするならば、また、人間の力によって神を動かし、幸福を引き寄せるようとするなら、そこには必ず何か特殊な宗教者や魔術師などが登場し、「金儲け」と結び付くのではないでしょうか。ここでは、イエスの名による礼拝が語られています。
4.主イエスの「熱意」
21節にはイエスの言われる神殿とは御自分の体のことだったのであると言われます。私たちはイエスにおいてまことの神に出会い、人間を愛する神に出会うことができるのです。イエスの神を思う熱心がイエス自身を食い尽くすとあります(17節)。今朝は受難節の、第四主日です。主イエスの受難をヨハネは詩編69:10を引用して解釈します。イエスの神と人への愛の深さが、そのあまりの情熱が自らの体と心を消耗させてしまう、十字架の死をもたらしたと言うのです。イエス様ご自身が神と人が出会う場なのです。
5.場所エルサレムから自由になった神礼拝
現在、パレスティナのガザにおけるハマスとイスラエル軍の過酷な戦争の事実と報道に心を痛めています。葛藤の発端は首都エルサレムを中心にしたイスラエルが主張する領土への拘りとアバブ人の住民が住んでいる地域に無理やり建国し、国際法に違反して領土拡大、入植地の増やすイスラエルの問題です。場所への拘りがなければ平和的に共存する道が開けるのにと思わずにはおれません。イエス・キリストにおいて人生のドンデン返しが起こらなければ、私たちの生活そのものがいつかドンデン返しを食うことになるのです。主イエスの名による礼拝と解放された自由人としての生き方を貫きましょう。(松見俊)