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2024.3.13 「安息に与る」 ヘブライ人への手紙4:1-13

1:  取り残されてしまうことはない

イスラエルの民は、出エジプトの後に神様から十戒をいただきました。そのなかに「安息日を聖別せよ」という教えがあります。(出エジプト20:8-11、申命記5:12-15)安息日を守る理由として、出エジプト記では、神様が天地創造の7日目に休まれたことを理由とし、申命記では出エジプトという神様の救いの出来事を覚えることを理由としています。

今日のヘブライ書では4節にあるように、出エジプト記で語られているように、神様が天地創造の7日目に休まれたことを理由として挙げています。安息日を守り、聖別するということは、神様の天地創造の業から被造物として、神様の恵みを覚えること、そのような神様と人間の関係があることを喜ぶ時とされるのです。

【取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。】(4:1)当時、ヘブライ書を読んだ教会は疲弊していました。その中には「もはや自分たちは神様の恵みから外されてしまった。もう何をすることも意味がない」といった思いが広がっていたとされるのです。そのような者たちに、ここでは【神の安息にあずかる約束がまだ続いている】(ヘブライ4:1)ことを教えるのです。「あなた方は取り残されてしまったのではない」、「あなた方は神様の安息、恵みの約束、神様との関係に置かれている」ことを教えているのです。

 

2:  すべての者に神の安息は続いている

2節からは、福音を知らされていながらも、その言葉が信仰によって結びつかなかったとし、受け入れることが出来なかった人がいることを教え、3節では【信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。】(ヘブライ4:3)と教えるのです。

ここで読み間違えてしまってはいけないのは、神様に従わず、裏切っていったイスラエルの民に対して、キリストの教会がとって変わり、救いを得る者とされたと読んでしまうことです。むしろ、疲弊した読者に、「イスラエルの民は救いを得た。しかし、心を頑なにし、神様の言葉を受け入れない者となっていった。そしてそれは今のあなたがた自身、あなたがたの教会もでもです」と教え、だからこそ「信じて安息に与りましょう」と教えていると読み取りたいと思います。

4節では【「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われ】(ヘブライ4:4)た、と教えます。安息の業は、天地創造の時点で、既にできていた。神様は人間を愛し、その存在を喜び、その存在を「良し」とされたのです。神様が人間を愛することは、何があろうとも、人間がどのように思うとしても変わることはない、神様の創造の時の決定事項なのです。

 

3:  心を頑なにしてはいけない

そのうえで、その恵みを受け取らなかった人々がいることを教えます。それは誰でしょうか。過去のイスラエルの民とも読み取ることができます。ただ、今回は、私たち自身の過去の自分として読みたいと思います。

7節で【再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。】(ヘブライ4:7)と教えます。これはカナンの地に入った、ヨシュアの時点で、安息が完成したのではない。その後のダビデの時代が「今日」となり、そこで安息が与えられているということを教えています。つまり、私たちが神様の恵みを頂くのは、「今日」「この時」なのです。神様の恵みは「今日」「今」頂き続けるものなのです。聖書は私たちに「心を頑なにしてはならない」と教えます。私たちはいつも心の扉を開いて、主の言葉を受け取り続けましょう。

 

4: 安息にあずかるために努力する

【わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか】(ヘブライ4:11)。私たちは安息に与るために努力をしたいと思います。救いは神様からの一方的な恵みであり、人間の努力ではないとし、あまり、信仰を得るために人間が努力するとは言いません。しかし、ここでは、【安息にあずかるように努力しようではありませんか】(ヘブライ4:11)と教えます。それは、神様が私たちに差し伸べて下さっている手に、こちらからも手を出すということでしょう。神様が私たちを愛してくださっていることを、心を頑なにするのではなく、心を開いて受け入れることです。

すでに召されました、教会員の方がいつものように「祈ることができてよかった。祈祷会に来たくなかったけど、行かなければならないから来たけど、来ると、来てよかった、また来たいと思う」と言われていました。これが心を頑なにしないで、安息に与るための努力ではないでしょうか。

 

5:  生きている神の言葉を受け取る

12節では「神の言葉は生きている」と教えます。人間は、何もしないと、神様から心を離して、自分中心に生きることへと向かってしまいます。そのような私たちの心を神様はすべてご存知なのです。私たちが神様から離れていくことは、神様にとっては悲しいことでしょう。しかし、神様は私たち人間の隅から隅まで知った上で、受け入れてくださっているのです。

 そして、神様は私たちに言葉を送ってくださるのです。人間にとって、神様の言葉は痛みを伴う「試練」でありながらも、私たちを心の底から生きる希望へと導く「慰め」となるのです。(笠井元)