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2024.3.17 「十字架の道に選ばれた方」(全文) ルカによる福音書9:28-36

1:   モーセとエリヤと語り合う

今日の箇所は、イエス様が、3人の弟子、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために、山へと出掛けられたということから始まります。ここで、イエス様の祈りの内に、イエス様の姿は変えられ、二人の人、モーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたのです。モーセとエリヤは、【イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。】(9:31)とあるように、イエス様のエルサレムで成し遂げられる、最期について・・・つまりイエス・キリストの十字架について話していたのです。

モーセとは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいる中、そのイスラエルの民を顧みた神様が、選び出し、解放へと導いたリーダーです。そしてまた、当時のユダヤでは、神様の律法とされる、旧約聖書の最初の5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を記した人とも信じられており、律法を代表する人物とも考えられていたのです。また、エリヤというのは、多くの預言者を代表する人物として考えられ、これから救い主が現れる前に、現れて、その道を整えると言われていた人物でもありました。この二人、モーセとエリヤは、旧約聖書における律法の部分と、預言書の部分を代表する人物と言うことができる二人となります。ここで、イエス様が、この二人と出会い、話し合っているということは、イエス様が旧約聖書に出会い、旧約聖書の言葉と、イエス様の言葉が向き合い、語り合っているとも言うことができる。そのような場面でもあるのです。

そのような旧約聖書を代表する二人とイエス様が語ったことは、何か素晴らしいこととか、神様の栄光というものではなく・・・「イエス様がこれからなされること、エルサレムで遂げようとしておられる最期について」話していたのです。この「最期」という言葉は、様々な言葉に訳されています。もともとの原語の意味で言うと、「旅立ち」や「出発」という意味を持つそうです。イスラエルの民がエジプトから脱出したこと。「出エジプト」のことも、同じ言葉を使って「出エジプト」と訳しているのです。ここでは、「一つの場所から、別の場所へ移動する」また「生きている者の世界から旅立ち、離れること」という意味をとって、「最期」と訳しているのです。イエス様とモーセとエリヤは、イエス様の最期、つまり旅立ち、そして出発について話し合っていた。イエス・キリストがこの世から旅立つ時、死の時、そして十字架の時です。このイエス・キリストの十字架における死という、「死」「十字架」について、イエス様とモーセ、そしてエリヤが語り合っていたのです。

 

イエス様は、この箇所の前、22節からの箇所において、【人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。】(ルカ9:22)と、自ら、自分の死と復活について語っていました。そして、このイエス様の予告された「死」について、ここでは旧約聖書の代表である、モーセとエリヤが語り合っていた。つまり、証言していたのです。そのような意味では、イエス様の「十字架の死」は、旧約聖書の預言の成就であり、イエス様が、この旧約聖書の指し示す、メシア、救い主であるということを教えるのです。

また、今日の箇所では、35節において【これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け】(35)とあります。イエス様は、旧約聖書が示すメシアであり、同時に、明確な、神様の選びを受けた者であるということを教えるのです。イエス様は、神の御子であり、神様の選びを受けて、この世に来られた方なのです。神様からの救い主として、旧約聖書の時代から預言されてきたメシア・キリストは、その苦しみと死へと向かう者、まさに捨てられる者として選び出されたのでした。

 

2:  検討違いのペトロ

このイエス様の姿が変えられ、モーセとエリヤと語り合うという出来事を、目の当たりにした、ペトロは、弟子たちを代表して【「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」】(ルカ9:33)と言いました。このイエス様の姿が変えられ、モーセとエリヤと語り合っているといった出来事は、ペトロにとっては、まさにイエス様が栄光の姿の中に入れられた時でした。ペトロにとって、自分のすべてをかけて、これまでついてきたイエス様が、そのような栄光の中に入れられているというのは、まさに最高の喜びであったのです。ペトロは、イエス様が、モーセとエリヤと共にいるといった、そのような輝かしい中におられることが、ここで、終わるのではなく、これからも、もっと続いて欲しいと思ったのかもしれません。仮小屋という幕屋を作り、このすばらしい時を覚えることが、いつまでもできるようにしたいと思ったのでしょう。

しかし、そのような思いは、全くの検討違いのことでした。イエス様は、この後、モーセとエリヤとの話を終え、十字架への道を歩んでいくために選ばれていた。イエス様にとっての栄光というものは、自らが光輝く者となることではなく、神様に栄光を帰すことであり、それは、神様の御心である、十字架の道、死への道を歩むことであったのです。この十字架の道にこそ、神様の栄光を帰す道があるのであり、その道をイエス様は歩むように、示されていたのでした。そのようなイエス様の思い、神様の御心をよそに、ペトロは、自分の思いのみで、イエス様に語っていたのです。この、今日の出来事の前に、イエス様は自ら、死と復活の予告をしていました。そして、ここでも語られていたのは、イエス様の最期について、つまり、その死、十字架の出来事についてであったのです。それでも、ペトロには神様の御心を知ることができませんでした。

それは、33節において、【ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。】(ルカ9:33)とあるように、ペトロ自身も、自分が言っていることが、神様の御心から、これほど離れてしまっているとは、わかっていなかったのです。

 ここには、人間の限界性、弱さ、罪というものを見ることができるのです。聖書においては、いくつかの言葉を「罪」と翻訳していますが、その中の一つに「ハマルティア」という言葉があります。この言葉は、もともとの意味として、「的を外す」という意味を持った言葉となるのです。人間の罪。それはただ倫理的、社会的に悪いことをしているということではなく、その一つの意味としては「的を外すこと」。それは、神様の御心から「的を外すこと」。神様の御心から外れてしまっている状態を意味する言葉ともなるのです。この時のペトロの姿は、まさにその神様の御心から「的外れ」、見当違いの行動をしてしまった姿ということができるのです。

人間には、限界があります。それこそ、神様の御心、ご計画をすべて理解するということは到底できないでしょう。この自分には限界があること、その弱さを認め、受け入れることはとても大切なことです。自分でも何を言っているのか、分からなくなってしまうほどに、神様の御心を理解することができない者、神様からすればまったくの的外れな生き方をしてしまっている者だということを、理解し、受け入れることが、救いを受け入れる第一歩だということもできるでしょう。

神様は、そのような私たち、限界を持ち、弱さを持ち、神様の御心を理解できない人間を愛されているのです。そのような、私たち、神様の御心を知ることができない者。知ったとしても、その道を歩むことができない者。そのような限界を持つ人間だからこそ、そのような人間を愛し、神の子イエス・キリストを、選び出し、この世に送ってくださったのです。それは、ただ、神様が御子イエスを、栄光ある御子として選ばれたということではなく、むしろ、神様の御心から離れていく、弱さを持つ人間の代表として、選ばれた。そしてその道は、死と苦しみの中に歩む道、それでも、どこまでも従順に歩む者として、イエス・キリストは選ばれたのです。イエス様は、神様を中心とし、神様の御心を聞き続け、従順に生き続けられたのです。このことによって、神様の御計画が、成し遂げられたのでした。私たち人間には、神様に従うことができず、神様を中心とすることができない。そのような弱さを持つ、人間のなかで、イエス・キリストが、人間の代表として選ばれ、そして、私たちの代わりに、神様の御心を聞き、そして、従い続ける道を示された。その道は、死であり、十字架への道でした。このイエス・キリストの従順な姿、どこまでも、神様に従うことによって、私たち人間は、神様の恵みを頂く道を歩む者とされたのです。このイエス・キリストの十字架への選びの業によって、私たち人間に、救いの道への選びが向けられたのです。これがイエス・キリストによる救い業、神様の恵みと慈愛の業なのです。

 

3:  祈られて、祈り歩む

このイエス・キリストが十字架に掛かられた時、人々は、十字架の上におられるイエス様に向って「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と叫んだのです。この十字架のイエス様に投げかける言葉も、神様の御心を知ろうとしない、「ハマルティア」、的外れな言葉、ペトロの「仮小屋を建てましょう」という言葉と同じであり、これは私たちが自分勝手に生きている時に、私たち自身が叫んでいる言葉となっているのかもしれません。イエス様は、そのような私たちの姿を、ご覧になって、なお、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってくださるのです。 私たちが、弱く、イエス・キリストの十字架を見ても、なお、信じない、受け入れない者であるにもかかわらず、イエス・キリストは、そのような私たちのためにこそ、救いの恵みを今も注いでくださっているのです。そして、その救いの道が開かれるために、祈り、執り成していてくださるのです。

私たちは、このイエス・キリストの執り成しの祈りに支えられている者として、弱さを持ち、限界を感じる中にあっても、その恵みによって赦され、愛されていることを覚えて、歩んでいきたいと思うのです。私たちはイエス・キリストによって祈られているのです。イエス・キリストの執り成しの祈りによって、支えられ、導かれているのです。私たちが生きる道。その道は、その前にも後ろにもイエス様がいてくださり、そして、祈りをもって導いてくださっているのです。

イエス様は、今日の箇所で、3人の弟子たちを連れて祈りに向われました。祈りへと連れて行ってくださったのです。イエス様は、今、私たちを命へと導いてくださるのです。イエス様は私たちの祈りにも、共にいてくださるのです。私たちが一人で祈る時も、そこに、イエス様は必ず共にいてくださり、心を合わせてくださっているのです。私たちはこのイエス・キリストの祈りを受け、私たち自身も祈る道へと歩みだしたいと思います。

 

先日、読んだ、マザー・テレサの本の中に、自分の名刺には、このように書いてあるとありました。「沈黙の実は祈り、祈りの実は信仰、信仰の実は愛、愛の実は奉仕、奉仕の実は平和」祈りの実は信仰。まさにその通りだと思います。そして「信仰」が「愛」の実を結び、「愛」の実が「奉仕」を、「奉仕」の実が「平和」を結ぶのです。まさに祈りこそ平和への道の第一歩だということです。私たちは、この十字架へと選ばれ、どこまでも従順に歩まれ、命をかけて、祈りの道を歩まれたイエス・キリストが私たちのために祈って下さっていること、そして私たちと共に祈ってくださっているということを覚え、まず、祈り、歩み始めたいと思います。(笠井元)