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2024.3.24 「絶望した時、神様に助けを求める方」(全文) ルカによる福音書9:37-43a

1:  ルカ9章から読み取る

 先週、共に学びました箇所、9:28からの場面は、新共同訳聖書では、小見出しに「イエスの姿が変わる」とあるように、いわゆるイエス様の変容の場面となります。このイエス様の変容の場面において、ルカによる福音書の特徴としては、イエス様がモーセとエリヤと語っておられた、内容が「イエス様がこれからエルサレムで遂げようとしておられる、最期について」話し合っておられたということです。この内容については、他のマタイによる福音書やマルコによる福音書と、大きな違いとなります。イエス様の変容とは、ある意味その神の子としての栄光を現したところであり、35節では【9:35 「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。】(ルカ9:35)とあるように、地上において人間として来られたイエス様が、神の御子、イエス・キリストであることを証しする場面ともなるのです。ルカによる福音書では、その神の御子、イエス・キリストの栄光のうちにあって、「イエス様の最期」つまり「十字架について」語り合っていたとされる。つまり、神の栄光がこのキリストの十字架において示されることを表してもいるのです。そしてまた、今日の箇所の後の箇所、9:43後半からは、イエス様が二回目のご自身の死の予告をされた場面となります。このイエス様自らの死の予告も、もちろん十字架を意味する言葉となります。 そのような意味で、イエス様は、これからエルサレムで遂げようとされている最期を感じ取られており、そのエルサレムで最期の時、十字架という出来事のために歩き出すのです。 今日の箇所は、そのように、イエス様が栄光の姿に変えられ、十字架へと歩みだしていく、その最初の出来事となっているのです。

 

2:  マルコ、マタイと比べて見えてくるもの

 また、今日の箇所を読んでいく時に、共観福音書としてある、マタイによる福音書、マルコによる福音書と比べて読み取る時に、見えてくるものがあります。この箇所は、一人の父親が、一人息子の癒しを求めてイエス様のもとに来たこと、そして、イエス様が不在の中、弟子たちでは、癒すことができなかったこと、それに対して嘆きながらも、この息子をイエス様が癒された・・・という話となっています。

そのうえで、マルコによる福音書では、この記事はマルコの9章に記されているのですが、他の福音書と比べると、その内容は、一番細かく記されています。特に、マルコでは父親とイエス様のやりとりが、他の二つよりも細かく記されています。父親は【「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」】(マルコ9:22)と言いました。この言葉に対して、イエス様は【「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」】(マルコ9:23)と答えるのです。そして、このイエス様の言葉に対して、父親はすぐに【「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」】(マルコ9:24)と叫んだのです。ここには、この父親の救いを求める必死さを感じるのです。また、癒しの場面では、【すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。】(マルコ9:26-27)とあります。ここでは一度、この息子は「死んでしまった」ともされ、そのうえで、イエス様が手をとって起こされたのです。これはある意味で「よみがえり」の奇跡の一つとしてを見ることができ、そこから、イエス様の復活を垣間見ることができる記事ともされています。

 これに対してマタイによる福音書では、この記事はマタイの17章に記されているのですが、先ほどのマルコの内容をだいぶ短くしています。そして、その中で中心に置かれているのは最後の部分となる、イエス様と弟子たちのやりとりとされるのです。【弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」】(マタイ17:19-20)このように、イエス様は弟子たちに「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と語り、その内容は、弟子たちに信仰について語っておられるのです。

 そして、今日のルカによる福音書を、この二つの福音書、マルコとマタイと比べると、大きな違いがあるのは、今日の箇所の最初の言葉と最後の言葉となります。ルカは今日の箇所を、このように始めます。【翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた】(ルカ9:37)この言葉は、今日の箇所が、この前の箇所からの続きであることを強調し、イエス様が栄光ある神の子であるということを継続して示すための言葉となるのです。そして今日の箇所の最後には、このように言います。人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。】(ルカ9:43)この言葉も、神の偉大さ、キリストの栄光を示すのです。最初の言葉と、この最後の言葉は、マタイやマルコにはありません。ルカは、この癒しの出来事を通して、神様の栄光と偉大さを表したと見ることができるのです。

 

3:   目を注いでください

 このルカの内容の方を見ていきたいと思いますが・・・父親は、【「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。」】(ルカ9:28)とイエス様に、息子の癒しをお願いしたのです。ここでの父親の言葉に「見てやってください」とありますが、この言葉は、岩波訳の聖書では「目を注いでください」という言葉となっています。この「目を注ぐ」という言葉が、同じルカによる福音書では、イエス様の母親であるマリアの賛美の言葉として使われているのです。【「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、」】(ルカ1:47-48)このマリアの賛美の中にある、「目を留めてくださった」という言葉が、今日の箇所の「見てやってください」、岩波訳の言葉では「目を注ぐ」という言葉と同じ言葉が使われており、意味としては「顧みる」という意味をもつ言葉となるのです。この父親は、イエス様に「息子に目を注いでください」、「息子に目を留めてください」、そして、「息子に顧みてください」と願ったのです。

 この父親は、イエス様に目を注いで頂くこと、顧みていただくことを願いました。この父親の姿を見る時に、私は、この現代社会において、神様に目を注いで頂くことを願っている人がどれだけいるのか考えさせられたのです。私たちは、イエス様に「目を注いで頂く」、「顧みて頂く」ということを求めているでしょうか。私自身は、この言葉を聞いて、自分が、日々の生活のなかでは、イエス様の目が自分へと向けられることを求めているか、疑問を持ちました。むしろ求めていないことのほうが多いのではないかと気付かされたのです。

皆さんはいかがでしょうか。この社会に生きる中では、むしろ、イエス様に目を注いで頂かないこと、「ちょっと、こちらを見ないで欲しい」と思ってしまうことが多いのではないかと思わされるのです。「神様に目を向けられたら大変だ・・・。自分の心の隅々まで見られたくはない」と思うような行為、思いに囚われているのではないかと思わされたのです。私たちは、こちらから神様に目を向けることもなければ、神様に目を注いでいただく必要もない。自分は自分で、自分のために生きていく。だれかに口出しなどされたくないと思ってしまっているのではないでしょうか。

神様に、目を注いで頂く。今日の父親もそうであったと思うのですが、神様に目を注いで頂きたいと願うのは、本当の絶望に堕ちた時、徹底的に自分の無力さを知らされ、もはや自分が立ち上がることができないといった、その限界まできたときに、わらにもすがる思いとして、求めることかもしれません。もはや自分ではどうすることもできない、もはや自分の力は尽きた。もう立ち上がることはできない。そのような時になって、やっと、私たちは神様に「目を注いで助けてください」「顧みてください」、そして「手を差し伸べてください」と、神様を求めるのではないでしょうか。

 

4:  悪霊からの解放

今日の箇所では、この一人息子の悪霊からの解放、癒しの出来事が起こされます。ルカにおいて、悪霊の働きは、精神的、身体的に障害を与えるといったものだとされています。それこそ当時の医学ではどうすることもできないような病、ここでは、突然叫び出し、けいれんを起こし泡を吹くといった出来事が起こることを「悪霊に憑りつかれた」としたのです。このことはマタイでは、医学に照らし合わせて「てんかん」だと病名をはっきりさせています。ただ、そのように「てんかん」によるものだとわかっていても、当時はそこからどうすることもできなかった。そのような意味で「悪霊に憑りつかれた」としているのです。

このように見ていきますと、現代は医学の発達によって、病が悪霊の働きといったものを信じる人はほとんどいないのではないかと思うのです。現代医学においても、原因もわからなければ、治すことのできない病気はたくさんあります。それでも、そのような病になった時に、それが「悪霊の働き」だと言う人はほとんどいないと思うのです。 イエス様の時代から、現代へと時を経て、この悪霊というものはいなくなったのでしょうか。むしろそのような者は、もともといなかったのでしょうか。聖書は、この悪霊の働きを様々なところで教え、その存在を否定はしないのです。

悪霊がどのような姿、形でいるかなどという話は、今日は話しませんが、悪霊の最大の働き、その目的は、神様と人間の関係を引き離すことです。それこそ、身体的、精神的苦痛を与えることは、人間と神様を引き離すために、悪霊が用いることがある、働きの一つでしかないのだと考えるのです。悪霊は様々な働きを通して、人間が神様から離れることを願い、働くのでしょう。それは時には、病を与えるだけではなく、逆に、多くの財産を持つこと、権威を求めさせるといったことを用いても、人間が神様を忘れ、離れていくために働いているのです。

現代は、そのような悪霊の存在、悪霊の働きを感じたり、考えることはほとんどありません。むしろ、そのようなことを全く考えないことは、神様と人間の関係が引き離されていく危険性が増してしまっているのではないかとも思うのです。悪霊などいない。そのような存在はありえない。何があろうと、そこには科学的に説明ができる原因があり、結果があると信じている現代において、悪霊はその存在を潜ませながら、神様と人間の関係を上手に断ち切っているとも考えることもできるのです。

 悪霊はその存在を潜ませながら、神様と人間の関係を断ち切っていきます。すべては人間の知識の中で解決できると、もし「どうすることもできない」と八方ふさがりになった場合は、「もっと頑張る」か「誰かに頼る」か「諦めるか」・・・それが限界に陥ったときには、精神的にも肉体的に追い詰められてしまう。それでも、自分たちの力でどうにかするしかないとする、現代社会では、限界に陥った時に、「神様に助けを願い求める」という道は閉ざされてしまっているのではないでしょうか。皆さんは、どうすることもできないという状況に陥ったときに、神様に「助けてください」と願っているでしょうか。

 実際のところ、私たちが生きているこの社会は、人間にはどうすることもできないことだらけではないでしょうか。多くの場所で戦争が起こり、自然災害、または人災といったものが起こっています。「なぜ」「どうして」と思うことばかりです。それだけではありません。それこそ、たった一言間違えたことによる、人間関係の破綻。裏切り。疑心暗鬼。陰口。そのように人間関係においても、どうすることもできないようなことが沢山あります。私の友人には、これまでとても仲良くしていた一人の人との関係が少しおかしくなっていくことから始まり、結果として、誰も信じることができなくなってしまい、誰かに会うことが恐ろしくなり、学校に行くことも、教会に行くことも、神様を信じることもできなくなってしまったということも、あったそうです。

 皆さんは、いかがでしょうか。今、自分が生きている中で、すべては自分の思いのうちに治められている。すべては自分で解決できることだけであり、自分の力のみで、生きていくことができると思っておられるでしょうか。私たちは、神様に「助けてください」と願う必要があるのです。それこそ、この箇所の父親のように、「目を注いでください」と求めていきたいと思うのです。自分ではどうすることもできないことがある。自分は不完全な者であるということを知り、「神様・・・このような私を助けてください」と願っていきたいと思うのです。そして、ここに本当の救いが始まるのでしょう。それこそ、本当の意味での癒しの出来事、悪霊からの解放の出来事が起こされていくのです。

 

5:  十字架による解放

 今日から受難週となります。受難週は、イエス・キリストの死に向かう苦しみを覚える時であり、受難日には、その十字架の痛みを覚えるのです。今日の箇所では、そのイエス様の偉大さを語っており、同時にそれは、イエス様の最期の時、イエス・キリストの十字架への道に向かった道であるとも言いました。イエス・キリストは確かに神様の栄光を帯びており、同時にそれは、十字架という人間における最大の恐怖、死という恐怖、それこそ人間にはどうすることもできない、誰もが向かわなければならない死へと歩まれたのです。そして、その十字架での死によって、死を滅ぼされた。人間に与えられている、最大の恐怖をイエス・キリストが打ち砕いてくださったのです。死を受けられ、死に打ち勝たれた。この出来事は、私たちには、どうすることもできないこと、もはや生きることも、立ち上がることもできないと思う中で、無力であると知らしめられた時に、そこにイエス・キリストの働きが起こることを教えてくださっているのです。

 私たちは、本当の八方ふさがり、どうすることもできないとされたとき、ここから神様の働きが始まると信じて、「神様、助けてください」と願い求めていきたいと思うのです。絶望。無力。どうすることもできない。この苦しみの中に、共に苦しみ、痛み、悲しまれるイエス・キリストがおられるのです。それこそ、キリストは、そのために苦しまれたのです。

 私たちは、この受難週を迎える中で、特に、キリストの苦しみを覚えていきたいと思うのです。

 

そしてそのような中でこそ、私たちが本当の意味で、絶望することはないことを覚えていきたいと思います。私たちは絶望しません。どれほどの困難が目の前に立ちふさがろうとも、私たちには主イエス・キリストが共におられるという希望があるのです。この希望を信じて歩んでいきたいと思います。(笠井元)